7.31.2014

まずは飲み込め

夜一時頃、まどろみの中でなにやら書きたいという気持ちで煩悶する。「明日は大事な用事があるのだから、寝なければ」と自分を制する。ぼくはキチガイか。

忙しい日常のために創作の時間がなくなっているという気もするし、生活のお陰で創作のパトスが生まれているとも思う。

いずれにせよぼくらは有機体である身体から逃れられない。猥雑で下賤な日常からも逃れられない。聖者的な生活は欺瞞である。

しかし、生活をすら創作に捧げてみたいなと思う。
根っから教師である者は、すべての事柄を、――自分自身をすらも、自分の生徒との関係においてのみ真面目に考える(「善悪の彼岸」 / ニーチェ)
自分自身をすら供物にするということ。 根っから芸術家である者は、自分の作品との関係にすべてを捧げるものだ。
それはかえって生活を破壊することにあるのではなくて(まあそれでもいいだろうが)、生活に対するアティチュードを変えることである。そしてそれこそが本質的な破壊の性格を持つということ。



何かを創るときは、ひとりでに作品ができあがっていくような感覚がある。この作品は確かにぼくの意志によって作られて、ぼくがエネルギーを注いだから幾ばくかの情報量をもって存在している。ところが、終わってから振り返るとこの作品は自分の意志で生まれたのではないか……ぼくは創ったのではなく創らされたのではないか……と思うときがある。少し不気味だ。

子どもができたとき、「天からの授かり物だ!」という風に思ったりする。でも、恋して、愛の行為して、たまたま受精して、細胞分裂して、できあがったのが胎児だよ。(野暮なことを言うが)
しかし恋も創作も同じじゃないかな。とはつまり、どこか病的で超越的である。
魔術師。この言葉はものごとを容易にする。作品を検討するなど無益。すべては、まったくひとりでに作りあげられるのだから。(ジャン・コクトー)

朝はいちばん書きやすい。しがらみがなくて身動きの取りやすい時間だと思う。ぼくは静かに書いている時間をいちばん好む。好きな音楽を聴いて、タバコとコーヒー、適度な室温、時間的余裕の中で、キーボードに打ちこんで行く。


ところでぼくの知人に根っからの芸術家肌の人間(つまり強烈な個性を持っていて、芸術家の血筋で、もちろん芸術が好きで、そして実際生活にはまったく無能な、「アッシャー家」の主人みたいな人)がいる。
大学一年である彼は「アルコールの類は一切飲まない」らしい。そして「エロ動画も見ない」のだという。「なぜか?」とぼくは問うた。すると、「まだ十九歳なので」とのことだった。

ぼくは最高にロックな奴だな!と思った。こういう人が天才なのだろう。
ぼくらが何か世界を知ろうとして盛んに酒に溺れたり、放蕩を志向するのに、元から「何かが見えている」人間はかえって視野を閉ざそうとするものだろうか。

彼は非常に興味深い人種なので、これからも付きまとってやりたいと思う。



こうして物を書き続けるということは、単純に楽しいことだ。しかし、いつかはぼくも大人にならなくてはならない。職業的物書きにならねばならない。これは恐ろしいことだ。

誰だってカラオケで歌うことはできる。だから幼子のだれもが歌い手になれると信じている。だれだって物を書くことはできる。だから幼子のだれもが作家に……。
ぼくは夢を見ているのかもしれない。ぼくの人生は何もかも間違いで、ひとつの失敗例なのかもしれない。

いずれにせよ成功も失敗も同じものだ、ただ行為に埋没しなければならない。確かにぼくは書いているとき、ある恐怖を感じる。享楽的に書いているけど、その中にちくりと痛みがある。書かれたものが正しいのか……書くことが正しいのか、という自問はなかなか離れない。


過去のブログの記事はいろいろなテーマを扱っていたけど、今となっては自分の心理状態しか書いていないのはどういうことだろうか。たくさん書くにつれてどんどん抽象的に、非論理的になっていく。

横で書いている人のブログを見ているが、「今日はバスケしてきました」なんてただそれだけ書いてあるのですがすがしさを感じる。このブログは蛇足ばかり書いているようにも思う。

しかし、内面世界の吐露こそすべての外的な報告の要素を含んでいると思う。

結局いろいろな実生活の抑圧とか、面倒な仕事とかは、自分の心の中に反動的に存在するのである。それは電子と陽子の関係に似ている(たぶん)。

「上司に怒られた」「女に振られた」「小説を酷評された」という出来事があるとする。それらの出来事は全て内面世界に反映されているのであって、いずれにしても一つの同種の感情に集約される。
それはぼくであれば「生きることは辛いことだ」、「人生とはやるせないものだ」、といったひとつの諦観。いちいち「女に振られました」と言う必要もないのではないか。


そう、このプロセスはけっこう大事なものだと思う。いちど内面世界に全てをたたき込んで、そこから別の形で吐き出すのだ。この屈辱や嫌悪で満ちた世界を飲み込んで、そして何か美しいものを吐き出す。

「バスケしてきました」なんて何も飲み込んじゃいないのである。ぼくはやっと飲み込むことを覚えた。痛苦や不幸をありのままの形で心に入れることのできる大きな器を作ることができた。
次には美しく吐き出すことを覚えなければならない……のだろう。キットね。

0 件のコメント:

コメントを投稿