7.30.2014

雑 ZCKCCY 記

何もかも身にならないという気もするし、ひとつの道を辿っているという感覚もある。この暗闇の中で歩いている、一歩60cmでも前に進んでいる感じること、この感覚だけを頼りに歩むしかない。注意深く目を凝らすけど、今のところ光は見えていない……。


何もかも間違っていた!と思い目覚める朝もあるもので、しかしぼくはショーペンハウエルの言ったように「朝は人生のエキス」であるということを信じるのだから、信じるがゆえに、朝の自分にひたすら物を書き続けることを強要する。ぼくの中にはガミガミうるさい教育ママが存在する、自分のなかに親だとか指導者を詰め込むのだから、これはもう完成した大人である。自力で回転する歯車。

ぼくは稚拙でもいいから浅薄なものを書きたくないと思う、でも浅薄なものを書こうという意志も重要なものだ。宮沢賢治や夏目漱石はなぜ教職を愛したか。
「こんな物の道理のわからないガキどもを相手してられるか。俺にはもっと崇高な使命があるのだ」
と教鞭を投げださなかったか。まあ最終的には辞めてるけど……それはより偉大な教師にならんとするためではなかったか。
確かに彼らは崇高で神聖な精神を持っていたが、これを大衆に落とし込むということ……広く社会一般に影響を与えること……ここに多くの「凡庸な天才」が辿りつけない最後の道のりがあるのだ。嫌でもしなくてはならない仕事だ。

崇高な使命を一身に受けて、だれも理解できない境地に辿りつくのもよい。そしてそれは天才の望むユートピアだが、結局天才という生き物も飯を食うしケツのでかい女には欲情を感じるし郵便配達さんには爽やかな挨拶がしたい。「ひとりで生きている人はいない」。
大衆への無関心や嫌悪感を、大衆への愛情へ変えて奉仕しなくてはならない。この凡俗への志向を持たなくてはならない。矛盾する双方向性を持たねばならない。天才とはまことに苦しい生き物だ。

そのことを知っていてさえ、ぼくには奉仕する方法も知らぬというのは残念なことだ。このブログに独り言のように書き連ねて、何になるというのだろう。
もっと広くひとびとに、ぼくの書いたものを読んでもらいたい。ぼくの書いたものによって救われる人があれば……何か暗い人生の中に光を持ってもらえれば……と気持ちの悪いことを思うのである。しかし本心である。
実際には、こうした何か献身的な態度をもったあっぱらぱーな平和ぼけ人間よりも、「芥川賞、とる!」とハチマキ巻いた眼光鋭い青年の方が成功することをぼくは知っている。誠実さはしばしば人を不器用にするし、いびつな劣情の方が強烈に人を動かす。

それに、本心からそんな「ボランティア精神」を持っているわけではないのだ。
ぼくは芥川賞作家がマスコミに持ち上げられて有名人になったり、急に異性にモテるようになったり、「年収500万円の作家でしたが今年の年収は5000万円になりました!」という成功譚にひかれはしない。ここはぼくの強みであり弱みでもあるのだが……。

金や成功への執着よりももっと強いエゴ。だれも見ないところで自己を豊穣させたい、自分という枠組みの中で完成した世界を作りたいという強烈なエゴがある。これは神経質な人間に生まれたぼくのサガであると思う。

まあ、どうでもいい。全部どうでもいいことだ。ぼくは書く。書くことの意味や結果は考えないことだ、まずは書くということ。暗中の一歩を踏みしめることだ。

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