8.14.2014

おにゃのこについて。

今日のことを書こう。本当は数人で飲み会をやることになっていたのだがうち二人が都合悪く中止になった。無為な一日である。ぼくはそのツテで女の子を紹介してもらい、現代芸術の企画展に行く予定を立てていたのだが、延期になった。

こうなったらあの女を誘うか?それとも新宿のあの女か。いずれにせよ、ぼくは「現代」に疎いので、現代的である女を引き連れてガイドしてもらいたいのだ。

最近のぼくの心は平明というか、安定化してしまって困っている。もっとぐらついてスリリングな創造力を発揮してもらいたいものだ。やはり外圧や抑圧、あるいは実存の危機!青春のヒビ割れた鏡!みたいな状態にならないと何かを創り出そうという気にならない。今のぼくは、煙草とコーヒーを飲みながらネット麻雀や将棋に明け暮れている。頽廃的だ。

わけても恋愛というのははっきりと実存の危機であるから、ぼくは何とか絶望を味わおうと女に近づき近づきしているのだ。女という生き物は興味深い。ぼくは永遠に結婚できないのではないかと思っている。女との関係が少しでも歪だと、ぼくはそれを壊してしまいたい欲求にかられる。完璧主義者なのだ。女からの愛情に少しでも不信を感じると、ぼくは暴れ出す(DVはしたことはない)。まあ、精神的に子どもなんだろう。未成熟な恋愛しかできない。

ぼくが好む女は、精神に子どもを残しているような奴だ。

そういえば昨日ラインの連絡を放置していた女の子から連絡がきた。何事もなかったかのように、「元気?」ときたもんだ。ぼくは彼女が不憫でならない。一説にはぼくの愛情はあまりに平等すぎるのだという。だから女が、勘違いしてしまうのだとか。ぼくのような人間がいちばん残酷な男なのだろう。ぼくは自分から好いた女以外の女を受け入れたことはない。

昔もこんな風に放置したことがある。彼女は銀行で働く女だった。彼女はぼくを好いていたことが明らかだ、しかし悪いことにぼくも曖昧な返事ばかりしてしまっていた。
ぼくはその子に千円借りていた。放置して数年間この千円を返せ返せと連絡を受けた。たしかに借りた金を返すことは当然である。しかしぼくは学生であり、彼女は社会人である。千円くらい、どうってことないはずだ。ぼくが逆の関係でも千円の貸しなんて忘れるはずだ。
ぼくは彼女が「金」という信用取引に乗じてぼくの注意を惹こうとする態度が透けて見えて、それがすごくむかついたので無視した。本当は千円返しても良かったが、正直、めんどくさかった。あるいは神経質な職業病で千円の損失が耐えられないのかもしれないが、そんな滑稽なことってあるか?

愛情を感じない女の愛情表現はうっとうしいことこの上ない。でも、そんな愛情表現がときに救いになることもある。暗い孤独の中でそうした連絡はぼくの心を照らしてくれる。だからぼくは、「Yes」とも「No」とも言わず、承認欲求をしぼりとってやるのだ。ぼくにとっては希望だが、彼女たちにとっては絶望だ。ぼくは本当に悪い男だと思う。女の敵だ。

……

ポール・オースターの「偶然の音楽」を読んだ。

オースター作品は「孤独の発明」が好きで何度も読んだ。これは小説というより自伝的書である。
この中のオースターの父親、感情を捨て去ったような人物と自分をダブらせていた。
父はけっして自分自身を語らなかった。語るべきことがありうるなんて、考えたこともないように見えた。あたかも父の内面生活が、父自身にさえ捉えられないものであるかのように。
会話をしていても「いつもそこにいない」父親の内部に到達できなかったことは彼を息子として苦悶させそして深く傷つけた。自らを語らないことの罪。自己を提示しないことは他人を締め出すことに等しい。
こんな父親に自分を重ねていたのである。

オースターの作品はブックオフなどで非常に手に入れやすい半面、ぼくは小説に強い魅力を感じないので読まず終いだった。昨夜、暑苦しくて眠れないなかでベッド脇に置いてあった「偶然の音楽」を読んだらおもしろくて一気に引き込まれた。

別に高尚でもないし、良いフレーズがあるわけでもないが、ああ、小説のおもしろさってこうだよな、と思った。映画的な展開のスムーズさ。陳腐な表現だが、次には主人公達がどうなるのか?気になってどんどんページが進む。

しかし個人的には「孤独の発明」の方がずっと好きである。処女作だけあってものすごく癖が強い。まあなんでも処女作ってのはいいものだ。

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