8.17.2014

野宿・アンド・セックス

野宿してきた。二回目。前回は八月八日に野宿を敢行している

バイクで林道をかけ昇り、その先にある渓流のそばにテントを張る。そして一晩過ごす。それだけのものだが、十分楽しい。
昼は明るく空気は澄んで、夜は暗く恐ろしい。大げさに言ってしまえば人間の原点に立ち返ることができるというか……。

草間彌生の自伝を読んだあとだったので、いろいろ考えることが多かった。キャンプで気ままに流浪の旅というのはヒッピー的である。ヒッピーとはなぜアメリカで増殖したのか。あの「サウスパーク」でこき下ろされている人種は何を考えているのだろうか。ここに女の子を連れてくればヒッピーごっこができそうだと思った。人気が一切ないから、別に全裸になっても構いはしない。

でもキャンプで女の子連れてくるのはしんどいだろうな。バイクの後ろに乗せれば狭いし、荷物は増える、加速は鈍る。リアタイヤが減る。

だいたい女とはキャンプに一切の興味がない生き物だとぼくは思っている。彼女たちが求めるのはシャンパン、給仕、高級フレンチ、ホテルのスイートルーム、百万ドルの夜景であって、渓流のせせらぎや漆黒の闇や自給自足ではない。焚き火で暖めた鯖の缶詰なんて与えた日には「帰りたい」とだだをこねるに違いない。「山ガール」のブームがあるって?それは装飾だ、新しいファッションでしかない、女はいつも装飾する生き物だから。

でも野外セックスなんて気持ちいいだろうなあと思う。暗い寝室で秘めやかにセックスなんてちょっと食傷気味だ。明るい日差しの元で、風と葉擦れと川のせせらぎを聞きながら、草地や岩の上でというのも悪くない……と、悶々とテントの中で過ごしたのだが。

草間彌生はセックスがコンプレックスだった。だから男根を象徴したオブジェを作りに作った。セックスとは、ぼくらの生活を顕在・潜在いずれにしても縛りつけている大きな衝動である。だから、セックスに恐怖を感じることは途方もない葛藤であり、生の否定である。そして病的である。ということはつまり、創造の源泉でもあると思う。草間彌生が勝手気ままにフリーセックスを楽しんでいたらたぶん世界的に有名な画家にはならなかっただろう。

ぼくは男だからあらゆる男と同じようにセックスが好きだが、セックスを怖れる気持ちもある。そもそも、女という生き物が少し怖い。怖くない振りをしているが怖い。根本的にわかり合えないものだという気がする。ぼくの母は離婚後、父とは違う男と再婚しているが、それが原因かもしれない。

女の絵姿ばかりを描く画家というのは女を怖れているのだと思う。彼らの行為は子どもが昆虫を解体するときと似ている。彼らはメスやピンセットの代わりに絵筆でもって女を解剖する。その全てを知りたいが故に、だ。

愚鈍に、なにも考えなければ女とうまくやっていくこともできるだろう。ただ神経質になってしまうとドツボに嵌まる気がする。これまで稚拙な恋愛を繰り返してきたからよくわかる。女を知ろうとすればするほど、女を傷つけてしまうし、遠ざけてしまうのだ。

……野宿の話からセックスに飛んでしまった。まあいくらセックスがタブーでも沈黙する必要はない。何事も考えることは悪くない。

ぼくは食事に秩序を求めるし、バイクにも拘りがある。もちろん偶然の出会いやハプニングも好きだが、女やセックスにも同じように秩序を求めるのである。フリーセックスとはただセックスすればいいというものではないし、女との経験人数が多ければ偉いという消費社会的な風潮もぼくは疑問だ。そのセックスは100円マックと変わらない。セックスにもクオリティを求めよ、ということである。

それにしても日焼け跡が痛い。

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