8.21.2014

抑鬱は友達ィ!

おはようございます。

ぼくは大体、六時にアラームをかけて七時からこうして何かを書く。そして八時に学校へ行き、そこから始業までは読書の時間。


昨日はさんざん失恋の痛みを味わっておきながら、夜ばっちりとその子の夢を見たらどうでもよくなった(一緒にマレーシアをデートしていた)。夢に見るということは、気持ちの整理がついたということだろう。


幸福を求めるところに不幸がある。不幸は真で、幸福は偽である。不自由が真で、自由は偽である。ぼくがここ数年で学んだことと言えばこれくらい。人間の本質は不幸である。生まれたくて生まれたわけではないし、死にたくて死ぬわけではない。でも、みんな生まれてしまったし、そして死ぬ。


同じように「ぼくら現代人は、自由です!」なんて言ってる奴はお花畑だろう。いや、職業選択や宗教選択など、与えられた自由で満足しているならそれでもいいが……。ぼくが単なる「鉄」という人間であってチンギス・ハンでも織田信長でもダルビッシュ有でも15歳の敏感な少女でもないという意味での不自由。自分が自分として生きなければならないという不自由、これを考えると人間というのは押し並べて不自由なのだと思う。


ぼくだって、自分が望んで自分であるわけではない。こんな神経症で覇気のない根気のない人間は、はずれくじを引いたと言うこともできよう。そんなことはない……未来の自分の可能性はいくらでも変えられる!とビジネス書みたいな暑苦しく息巻く奴もいるだろうが、ぼくはそんなことはなくて、そんなことはむしろ遠回りで、ぼくの内奥の精神が「それはイヤ」と言えば「はいそうですか」と投げだして、「それスキ」と言えば全力でゲットするような、ぼくの理性はそんな自己の恭順な奴隷である。


人間がもともと不幸で不自由であると知っていれば、世の中を生きることはグッと楽になる。「人生かくなるもの」と認識していれば絶望する必要はない。

昨日は、「人生ってこんなに辛いものなんだ!」と今更ながら感じた。ひさしぶりの鬱の波だった。しかしその波も、一日過ぎれば通りすぎた。たぶん今後なんどもこういうことはあるだろう。

人生は苦しむことによって豊かになると思っている。ぼくは抑鬱状態になってそれに酩酊しても、「自殺しよう」と思わない。なぜかはわからない。小学生頃から情緒不安定で、精神の危機を何度も迎えたが、ぼくは何かしらにしがみついてあくまで生きることを望んだ。友人たちは、手首にカッターナイフを当てたり(手首どころか全身に、という奴もいた)、タナトスに魅入られたようなポエムを書いていたが、ぼくはただ泣いて、泣き疲れたら寝て、そしてまた起きた。


まあ意外と図太いところがあるのかもしれない。神経症である人間は、躁鬱病の気質とは別だと思っている。神経症的な人間は、感情を平板化する術に長けているとぼくは思っている。(躁鬱病は逆だ。感情がどんどん膨れあがって、人格を支配してしまう)


だから今日も、淡々と読書をしに学校へ行くし、教授に愛想を振りまくし、にこにこと仕事をする。

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