8.26.2014

モラトリアム人間(笑)の嘆き

白々しい。

ぼくの行く道はもう決まっているのだと思う。ぼくは自由を求めたい。すでに、ぼくは自分が自由でないということを知った。しかし、それと同じようにこの世界で生きている人のほとんどが不自由であることを知った。

ぼくはできるだけ自由に生きたいと願う。少しでも自由が欲しい。不自由な人間は崇高な使命ではなく、明日のパンしか見ることができない。定住よりは流浪……富裕よりは貧乏……快楽よりは苦痛……。

貯金もなく、頼れる人もいない。偶然にたいして手放しになって、身に降り注ぐ雨風を全身で受けとめるのだ。

で、昨日はそんな自分に対してカッカとなった。なんだお前は。自己満足のポエマーが。技術もなにもない。大学では音楽遊びをしていただけ……。頼れる友達の一人も作らず……冷笑的で教授に嫌われて……。まともに就職もしないというのだから!お前はどれだけ人生を舐めているのかわかっているのか?と、ぼくは自分に対して怒った。

ひとはだれしも心のなかに「子どもの自己」「親から受け継いだ自己」「統合された自己」の三つが存在する、と古い心理学書に書いてあった。親が死んでも涙を流さないだろうぼくであっても、親的な自己は存在する。親的な自己はまじめに就職して、結婚することを望んでいる。頼むからそうしてくれ……と。

どうかな。ぼくがまじめな親になったとして、自分の息子が「俺は旅人になるんだ!」とか言い始めたら……。それも25歳になってだよ。ぼくは怒るというよりも、少し、ほっこりするかもしれない。「血は争えないなあ」「お前も大人になったんだなあ」と思うだろう。そして、「母さん、今日は赤飯だ!」となるかもしれない。(?)

「父さん、ぼくやりたいことも特にないしニートになるよ!」なんて言ったら手が腫れ上がるまで殴るだろう。しかし、世間的にはどちらも同じように考えられている。引きこもりもフリーターも同じ社会のヒエラルキーの底辺として扱われている。芸術家志望、作家志望、フリーランス志望などはモラトリアムの一言で片付けられる。大企業で島耕作のようにバリバリ仕事をすることがエリートのロールモデルだ。ぼくのようなふわふわした人間は

「お前もそろそろ地に足つけろよ」

なんて、言われるわけだ。

親や、友達や、社会が言っていることがすべて間違っていて、ただ少数の賢者(あるいは狂人)たち、ニーチェ、バルデュス、カミュやヘッセの言うことが正しいということがあり得るのだろうか?一体、そんなことが?この世の大部分の人間が間違った人生を送っていて、ただ少数の人間が正しい人生を送れるということがあり得るのだろうか。

「万人のうちで、英知に専念する者のみが暇のある人であり、このような者のみが生きているというべきである」 とセネカは言ったが、それなら大企業勤めでスケジュール帳を真っ黒に埋めている人は、死んでいるのか?ブラック企業で喘いでいる薄給労働者やアルバイターも死んでいるのか。

そして、ぼくは、「生きる」ために財産も、名誉も、友情も投げ捨てなければいけないのだろうか。なぜそうなのか?そうでなければならないのか?(Muss es sein?)

答えはたぶん決まっているのだ。

プロット★メモ
ある作家志望のプロットを見ていたら、ひとつの確信にいたった。いちばん最初に浮かんだものがいちばん良いという確信。プロットをいくつか考えたとき、最初のプロットは「無」から生まれている。それに対し、以降のプロットは必ず前のプロットの影響を受けていて、「有」から「有」への変化でしかない。

ぼくは「無」から生まれたものがいちばん自然で、美しい作品になると思う。しかし、現実としてはそんな作品では世に認められないことがあるわけで、ある程度手を加える「技術」が必要になる。おそらくプロフェッショナルな作家さんは、そういう技術に熟達しているものと思われる。
そしてその技術は女性的なものであって、化粧とか装飾だとかあるいは生け花のような技術が必要なのだ。

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