8.30.2014

死と堡塁

はあ、ぼくは何もできない愚鈍なバカなのだろうか。何もできない馬鹿だから、自分に何とか価値を見つけようとして、文学だの、絵画だの、海外旅行だのに憧憬を持つのだろうか。自分に価値をつけるための、虚飾としての夢目標。「何者でもない」自分を怖れて、自分にしかできないことを求めて、普通の仕事を軽蔑して、毎日がんばって生活しているひとたちをバカにして、自分だけは違うぞ、と思いたいだけなのだろうか。

ぼくは割と最近に、一般的な幸せを捨てることを決意した。どうやら幸せというものは、迷妄や麻痺や陶酔、あるいは錯誤に近いものであることを知った。だからぼくは生まれ落ちた痛みを、生身で受けとめたいのである。集団社会だとか、法律だとか、保険のようなバッファーはいらないのだ。ただ大地の上で駄々踏んで、純粋な痛みを味わいたいのだ。純粋な幸福は存在しないが、純粋な不幸なら存在する。

真理に到達したいのなら、幸福よりも不幸を追求せよ。

だが、毎日マジメにガンバッテイル人びと、これをどうして軽蔑しなければならないのか。毎日ガンバッテイル社会的に成熟した大人たちを、どうして「目の開ききっていない子どものようだ」と言うことができるだろう?パリっとしたスーツを着て、年に1000万円を稼いで、温かい幸福を築き、都内にマンションをもっている、非の打ちどころのない成功者たちを、どうしてぼくは「錯誤」だと言えるのだろう?

ぼくはたぶん……。そうした生活とは無縁だろう、もちろんぼくはそうした生活に憧れた時期があった、将来はエリートサラリーマンになるのだと漠然と思っていた。それが、気づいたらもう少しでニートというところだ。まだ取り返しはつく。しかし……。

ぼくはぼくの望むことをさせてあげたいと思う、ぼくだけがぼくの理解者であり、ぼくを自由にさせられるとすれば、それはただぼく一人にできることなのである。社会だとか、環境がぼくに自由を与えられるのではない。自由とは、より内在するものであると思う。

ぼくはまだ大学生である。何を考えても自由だ。しかし来年から大学を追いやられて、そのときにどんな感情を持つかがわからない。きっと、肌寒いものだろうと思う。全てを後悔するかもしれない。

しかし……、こうするしかない。「こうでなければならない」という感情が、ぼくを支配している。

こんなことがあるだろうか?マジメに働く……。親や教師の言いつけを守る……。人びとのために貢献する……。義務を遂行する……。そうした、”正しい”方向を志向すること、そのために多くの人びとが時間を費やしている。しかし、ぼくのしていることはどうだろうか?集団を離れ……義務を放棄し……ひたすらエゴの言いなりになっている。ぼくはどうしてしまったのか。壊れているのかもしれない。狂っているのかもしれない。

ともあれ……時間は有限である。ぼくは生まれた、そして死ぬ。残された生を全うしなければならない。死が訪れるのは20年後かもしれないし、明日かもしれない。それが少しの救いである。エリートサラリーマンも死に、ぼくも死に、今の社会に生きているすべての人びとは、100年後には死んでいる。この狂気じみた未来図は、峻厳な事実であるが、同時に不思議な温かさを持っている。

「そうでなければならない」のだ。だれもが死ななくてはならない。死を前にすれば、ひとは必ずこう問うだろう。「そうでなければならないのか?」

「そうでなければならない」のだ。

一週間後に死ぬとなっても、ぼくは、普通の人が感じるよりも動揺しないだろう。遺すべきこともとくにない。やり残したことも特にない。生に対する執着は、あまりない。とは言っても、腹が減ればご飯を食べるし、指を切れば止血する。しかし、ぼくは運命に対し手放しで過ごしたい。

土砂崩れで広島で何十人かが亡くなったという。ぼくらは「怖いねえ」と身震いする。しかしどうだ。ぼくらは死なないわけじゃない。車に牽かれるか、病死するかは知らないが、結局ぼくらの前途に確実にあるものは死しかない。早いか、遅いかである。

そう、それを考えると。ぼくはささやかな堡塁を築く気にはなれないのである。

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