8.24.2014

二流大の男

とくに書くこともないが、書いていく。

もはや普通に生きていくことを諦めるということ。一般的な幸福を諦めるということ。世俗的な幸福……。金や友情や権力、地位の世界。その世界と自分たちの世界に線を引いて、孤独に生きていくということ。

部屋のなかでひとり本を読んでいると……静かな調和に満たされるときがある。あるいは、オルガスムスのような興奮を得ることもある。たぶん、妻と子どもが戯れているのを見ているときに父親が感じる調和と、セックスのときに感じるような痙攣を、ぼくは本を読んで味わっている。

そう、これがぼくの幸福の形なのだ。

だから……道を歩いているときにすれ違う大学生カップルとか……見るからに仕事のできそうなサラリーマンとか……あるいは、超高級車に乗った若者とか……そういった「幸福な人びと」を見て、誘惑されることをやめにしよう。ぼくらの前途は、たぶん遠く先にあるのだ。

人間の特徴は……遠く未来まで予測ができるということだろう。これは他のどんな動物にも不可能で……だから、人間はこの能力を最大限発揮しなければならない。そうすれば、目先の金銭だとか、欲情に身を任せることはなくなるはずだ。

まあ、どうでもいい……。

ぼくは虚空に向かって語り続けているのだろうか?ぼくは孤独にブログを書き続けている。ぼくは自分が正しいと思ったことだけを書いている。このブログ、たいしてアクセスもない。たぶん、その辺のブログよりはおもしろいという確信があるが、だれも足を止めないところを見ると、そういうものなのだろう。

まあいい、無価値であっても。ぼくの文章が精彩を欠くとしても、それは仕方のないことだ。おそらく東大だとか、そういうところを出た天才の書く文章こそ求められるものだろう。例えばぼくが今夢中になって読んでいるコリン・ウィルソンの「アウトサイダー」だが……。高校生のときに愛読していたなんていう天才がいるのだから、困る。

ぼくは二流大の、しかも文学部ですらない。坂口安吾は東洋大の卒だからぼくは少し安心するのだけど、最近は安吾も時代に持ち上げられただけの二流作家のような気がしてきている。

しかし、ニーチェのいうように「あまりにも遅すぎた!」と言う気はない。あるいはテグジュペリのいうような「乾いた粘土」だと自分のことを思う気はない。たぶん、ぎりぎりセーフだろう。
自発的活動的な人間、すなわち芸術家の地位は傷つきやすいものである。というのは、その個性や自発性が尊敬されるのは、実際に成功した芸術家だけであるから。もし作品が売れなければ、彼は隣人から奇人か神経症患者と見られる。(「自由からの逃走」 / E・フロム)
まあぼくは、二流でしかないだろう。パッとしない人生を歩むだろう。それでもいい。一日一日を悔いのないように、ね。

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