8.05.2014

最低限意味のわかることを書きましょうという

一体ぼくは何を書いているのだろうか。全部粗末だ。お粗末様だ。何も意味がないし、ひとりよがりだ。これじゃあ中二病だ、思想こじらせた人だよ。


ぼくは本気で何かを書こうとした一年生の初学者であるから、いろいろ逸脱はあることだと思う。ぼくは紙とペンを与えられた子どもである。書くことは定まっていないし、その技法もめちゃくちゃだ。まったく読めたものではない。

しかし、悲しいかな「これでいい」という気もしてくるのである。これは諦めに似た感情だ。

ぼくはもはや四捨五入すれば三十歳のオジサンである。レイモン・ラディゲがジャン・コクトーに賛嘆された年齢から十年も経っている。こうした家庭を持ってもおかしくない年齢になると思うことは、自分の心の中に子どもを持っても、不思議な寛容さを持って迎え入れられるということである。

これはぼくの生まれ育った家庭環境のせいなのかもしれない。ぼくを溺愛する母に比べて、父は全国を飛び回る仕事でなかなか構ってくれなかった。おまけに彼は父親としては無能な人間であったので……(愛情はあったのだと思うが、稚拙で臆病だった)。ぼくはかえって肥大した父性を持ってしまったのかもしれない。……あるいは母性を? いずれにせよ、親ばか的な要素をもってして自分のなかの子どもの逸脱を容認しているのだ。


話は全然変わるが、オリンピックの開会式の演奏もつとめたパーカッショニストのエヴァリン・グレニーがTEDで講演していた。興味深いのは彼女が初めてドラムを習ったときの指導方法である。

スティックの正しい握り方とか、スネア・ドラムの叩き方……というような、一般の音楽教室で習うようなこととはほど遠い。彼女はスティックを握らされることもなかったのだ。

スネア・ドラムを持ち帰って、一週間それと一緒に生活することを彼女は命じられたのである。

彼女はスネアドラムと格闘した。手で叩いてみる。表面をなでてみる。裏側を叩いてみる。皮ではなく筒の部分を叩いてみる。指の腹、拳、肘、あるいはその辺に落ちている小枝で叩いてみたりもしたかもしれない。

こうした教育!これはすばらしいものだと思う。音楽とは芸術である。芸術とは自由である。というか、自由であることを課せられている。その自由を学ぶとともに……

楽器の持つ特性、その機能、意匠といったものをあらゆる角度から味合わせること。これは非常に優れた教育である。

ぼくのしていることも、これと変わらない。結局書くことと言えばぼくの心のことであるから……。ぼくはぼくの子どもに、ぼくの心を自由に触らせてあげる。その表面をなでたり、棒きれで叩いたり、ときに蹴飛ばすことを容認する。

ぼくはぼくの子どもに、ぼくの心を打ち鳴らして欲しいのかもしれない。楽器が歌うために作られているように、ぼくの心も表現を待ち望んでいるのかもしれない。

……まただ。また観念的でわけのわからないことを書いてしまう。

ぼくはベースを習って数日目である。ドレミファソラシドを弾けるようになったのが一昨日。今は12小節のFブルースのウォーキングをヘタクソだが弾けるようになった。

ぼくは正しい努力の方法を楽器との付き合いから教わっている。芸術に対する姿勢はもはや作られてしまっている。ぼくはぼくの正しいと思うことをするしかないのだ。



ところで「禅とオートバイ修理技術」という本を読んでいる。
自閉症の息子と大陸横断のオートバイ旅行をする中で、旅やバイクの整備を通じてギリシャ哲学、禅の教えなどの思想体系に挑戦するという本。

単なるバイク旅行をしました、という話ではない。そういう本はいくらでもあるが、なぜかバイクの旅・メンテナンスから哲学へ通じていくのが本書の特色である。たぶん半分以上は思索的な「哲学講義」がなされており、その色濃い思想に圧倒される。

今はまだ全然読み進めていないが、バイクと哲学に興味のあるぼくには非常に良い本だ。
異常な行動は他人の心に疎外感を抱かせるものだが、その疎外感は、ややもすると異常な行動をさらに助長することになる。こうして駆り立てられた疎外感は、内部循環を繰り返し、ついにある種のクライマックスに達する。パイドロスの場合は、裁判所命令によって逮捕され、社会から永久に排除された。
ハイドロスとは古代ギリシャの知者ではなく、筆者の過去の人格である。筆者は狂人扱いされ、電気ショック療法を施され人格を失った。その過去の人格をパイドロスに見立てているのである。

これらの内容についてはまだ完読してないので控えるが……。この引用した部分の表現が妙に気になる。ぼくを突き動かす衝動のひとつは疎外感からくるものでもあるので。

0 件のコメント:

コメントを投稿