8.06.2014

Run Boy Run

ぼくが文筆家になることを告白したのは二人。

ぼくは精神的な引きこもり、あるいは精神的な不具の人間であるので、何かしらの感情を吐きだすことを強く自制してきた。何か惹かれているものがあるとする。それに強く惹かれているほど、ぼくは公言することを控えた。例えば最近は「書く」ことがぼくの生活を占領しているなんて、だれにも言ってはいない。というか、普通なかなか言えないだろう。

「最近好きな音楽は?」と問われて、もっとも好きなアーティストではなく、三番目くらいのアーティストを紹介するのと似た気分である。

その感情が否定されるのが怖いのだろう、とまず考えることができる。数多くの音楽が現存する中で、たったひとつのアーティストを選ぶとしたら、そこには深い精神の動きが読み取れる。

例えばある女の子に惚れこんだとする。その惚れ込みが強ければ強いほど……周りの人間は、君の精神を如実に掴むことができるだろう。君という人間の個性・精神・思考・趣味を手に取るように理解することができる。音楽も同じだ。いちばん好きな音楽を表明して、それがバカにされたりすると、自分が否定されたような気分になる……。

ぼくは他者に理解されることを怖れているのだろう。なぜかはわからない。本当の意味で理解されることはないだろうという諦めからかもしれない。結局、いつもある類型に落とし込まれるのだ。モラトリアム青年、サブカル系、中二病……自分の心情を打ち明けると決まって誤解される。「変わった人間」に対する恐怖感や不安をまぎらわす、便利な言葉はいくらでもあるのだ。それなら他人に恃む方がバカだ。

……以上全部どうでもいい。

「ぼくは文筆家になりたいと思うよ」と言ったある二十歳の少女には、こう言われた。
「三十歳までは自由にやっていいんじゃない。それならまだ取り返しがつくし」

なんだか年下なのに、現実的なことを言われた。達観したおばさんみたいだ。彼女の周囲には夢追い人が多いのだろう。話を聞く限りはそんな風に推察することができる。それに、彼女自身も夢追い人で、はたらきながら専門学校に通っている。
夢を追って、無慙に敗北した人たち……。圧倒的多数の人間は、これまで嘲ってきた社会や社会人に「ごめんなさい」をして、「これまでの自分は間違っていた。どうか働かせてください」と反省しなければならない。これがこの社会の掟だ。アリとキリギリスの寓話に似ている。自然なことだ。

今のところ、ぼくは生活を犠牲にはしていない。あっさりしたものである。おそらくぼくは、平均的社会人よりは豊かな生活を送ることができるだろう。文筆がなくても、である。しかしそんな生に何の意味があるだろうという気もするのだ。

夢を捨てるのはいい。somebodyになろうとして頓挫するのは仕方がない。音楽にしても、文筆にしても厳しい生存競争の世界だから。しかし、「ごめんなさい」をした彼らは二十年後もギターを握るだろうか。物を書くだろうか。彼らは本当に芸術が好きだっただろうか?野心や功名心の発作にかられて痙攣していただけだったのではないのか。……ぼくも同類だと言う指摘もあるだろうが。


もうひとり。
酒に酔って、ついポロっと「ぼくは芸術をあきらめられない」と言ったとき、二十四歳の女には、こう言われた。

「かっこいい!」

こう返してくれるのが、正解である。ありがたいことだ。女とはかくあるべし!


岡本敏子の言葉


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