8.28.2014

「質量」を持った作品

「書くことは人を確かにする」という言葉があるが、ただ書くことを志向しているブログであるこの場で、ぼくは自分という人間の"体系"を作ろうとしている。

このブログの記事ひとつひとつが、自分という人間の要素である。その散りどもをうずたかく積み上げたなら、その全体が表すのはぼくという人間の精神である。だから、ぼくはすべてを本心から書こうと試みている。本心で書いたものは全て筋が通っている。だから、体系はより情報量を増していくとともに、まとまりを強めていく。その先になにがあるのかわからないが、プラトン的なイデアが見えてくるのではないか。つまり、精神のイデア。くだらない人間の精神にもきっとイデアはあるのだ。

表現とはそういうものではないか。自分のもっとも根本とする主義主張をぶつけるという行為ではないか。そこに少しでも錯誤だとか、不純な気持ちがあったなら、作品を全てスポイルしてしまう。混じりっけなしの感情しか質量を持たないだろう。ぼくはこういう人間で、だからこういう作品を作った。ぼくはアウシュビッツに収容されていた経験があるから、これを作った。ぼくはヴラマンクの絵に脳天を揺さぶられたから、これを作った。ぼくは両足が不自由だから、これを作った……。

作品にはすべて動機がなくてはならない、エロスだとか、生活(金銭)のために作られた作品がどうしても上滑りで薄っぺらいのは、そうした欲求が低次だからである。人間にとってエロスは一要素であり、生活もまたそうだ。ぼくらが望むものは、そういうものを包括した精神の全体である。そうは思わないか?ある兵隊が登場する映画を見るとして、その兵隊が、「早く帰郷して女房をファックしたいぜ」なんて話に終始してたらつまらないだろう。もっと根本的な事象を知りたいと望むだろう。「死にたくない」と泣きわめく新兵だとか、敵陣に果敢に攻め込む兵士がそれである。

だから、ぼくはつねづね「質量」を持った作品を創ろうと思っている。この質量とは、ぼくという精神の全体である。全力を注ぐ、というのともまた違うと思う。そこに力みがあってはならない。ただぼくの精神の核を、心臓を、委譲するということ。これはミームの概念に近いかもしれない?

ぼくは孤独に慣れきったあまり、「正しいコミュニケーションの方法」を忘れてしまった。願うのは、精神の核でもって、他の精神の核を、揺さぶることである。


意味不明な供述をしており

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