8.24.2014

からあげベント

今日は一日イライラしていた。どうも精神があるべきところに収まっていない感覚。この分裂した気分はぼくにとって珍しいことじゃない。ひと月が三十日だとしたらたぶん十日くらいはこんなもんである。

この感覚を子細に解説するとすれば……。ぼくがトイレに行くにしても、飯を食うにしても、ドフトエフスキーを読むにしても、絶えず「え、ほんとに?ほんとにそれをするの?」と聞く子どもがいるような感覚である。

ぼくがからあげ弁当を頼もうとすれば……「ほんとにからあげ弁当でいいの?カップラーメンの方が安上がりだし……そもそも、食べる必要はあるの?ほんとにお腹、空いているの?」と聞いてくる……。

こうした幼児的、懐疑的、停滞的自己の存在はぼくの生活を阻害する。彼の言うことを逐一聞くとしたら? 一歩も進めずに、マロニエの根がマロニエの根以上の存在に見える(存在が存在をやめてしまう)ということになりかねない……。だからぼくは彼が見えない振りをする。

ああ、いいんだよ!俺はからあげ弁当を食べるんだよ!十三時になったらな!いつもそうしてきたし、からあげは好きなんだよ!黙ってろ、クソガキ!

しかし、無視ばかりもしていられない。こうした子どもが出てくるということは、何かが間違っているのだ。ぼくは精神の警告を無視し続けるわけにはいかない。

なにしろ、そのときからあげ弁当を選択したことが本当に正しいかはわからない。ただ習慣がぼくを正当化せしめている。からあげ弁当、500円……。値札と、色とりどりの安心できる食材たちが「私は正しい選択肢だ」と主張している……。なぜ、安心できる?たぶん全国にこのからあげ弁当はあるし、ぼくと同じように十三時にからあげ弁当を食べるひとは何千人かいるという事実。

ぼくはからあげ弁当を選択したんだろうか。からあげ弁当に食べさせられているのではないか?あるいは、だれかに/なにかにからあげ弁当を食べさせられているのではないか。
狂気じみているが、ありえないことではない。ひとつの命題が浮かびあがってくる。「ぼくは本当に自由なのか?」

この社会は完全ではない。たぶん数千年後の人間からしてみれば、「彼らはなんて不幸なんだ。何もかも間違いの生活を送っている。」ということになるだろう。ぼくらは西暦1000年頃の人びとの生活を見ることができるとしたら、腹を抱えて笑うだろう。車もない、医療もない、文化も原始的で、迷信がはびこっている……。しかしぼくらは千年後の未来人に笑われるし、彼らも二千年後の未来人の失笑を買うのだ。

社会が、集団があるところに誤謬がある。
これまで群衆が、真実を渇望したことはなかった。群衆は、自分らの気に入らぬ明白な事実の前では、身をかわして、むしろ誤謬でも魅力があるならば、それを神のように崇めようとする。(「群衆真理」/ ギュスタフ・ル・ボン)

今日は疲れているので、さっさとまとめてしまいたい。
この妖怪を消す方法はいくらか存在する。ひとつは大自然の中に身を埋めること……。たとえば深い山中にテントを張って一晩過ごすと、いつの間にか消えている。自然には選択なんてない。すべてが自明で、あるべきところに「収まっている」のが自然だ。人工的にゆがめられた公園であっても、樹木や昆虫は全く何も疑わずにすべてが正しい形で機能している。ただ人間だけが間違っている。「選択」や「自由」なんて下賤で不確かなものはない。

森や川など大自然の自明性のなかに沈湎することが治療法の一つだ。つまり自由なんてないという結論。

もうひとつは、ひたすら音楽の基礎練習を反復することだ……。しかし、これは音楽でなくてもいい。これは、さまざまな宗教の詠唱と似た意味を持つ。

ちょっと酔いが回ってきたので寝る。てんでだめな文章だ。少し眠らなくては。

0 件のコメント:

コメントを投稿