8.04.2014

脱力について

結局、息巻いたところで何にもなるものではない。
とにかく、ぼくは常に自由であろうと試みるのである。それは綱渡りにも似た微妙な感覚が要求される。

綱渡り……そう、バランスこそ何事の修養にも必要であると考える。ぼくらが何をしようにも、バランスは重要である。楽器をやるとき、バイクに乗るとき、ただ歩くにもバランスは重要だ。

ところが、ぼくが見る限り、バランスを崩して転んでしまったまま歩み続けるひとを見ることが少なくない。懸命に足を動かしたところで、悲しく自転するだけである、それも当然だ、目は硬く閉ざされているのだから。必要なのは足を動かすことではない。前に進むことなのだ。這いつくばってでも。そう、始めはだれでも四つ足から始めるのだ。そこから……。とにかく、前に進む。

ところで、バランスとは何だろうか。これを定義してみると、ヘーゲルの言ったような「肉体の流動化」に繋がると考える。例えば、熟練した職人がもはや、手指のようにハンマーを扱うところにバランスはあると思う。

何かを行為するとはどういうことだろう?
ハンマーを打ち下ろすのであれば、まずハンマーで釘を打とうと意志することから始める。そして体幹を捻る。上肢を上げる。打ち下ろす。指を握る。
しかし、職人は指を固く握って、その打撃のインパクトを台無しにしてしまう者が素人であることを知っている。そして、腕をどうあげようか悩む者が優秀な職工でないことも。

次第次第に脱力は最奥を志向する。手指から腕へ、腕から肩へ、肩から体幹へ、体幹から脳へ、脳から意志へ、意志から先は?

優秀な職工はもはや意志すらしない。彼は金や義務のためにハンマーを振り下ろすのではない。彼が生きることと、ハンマーを打ち付けることは同義なのだ。


荘子の達生編に、こんな訓話がある。

 梓人(しじん・木工師)の慶(けい)が木の細工をして楽器をつるす木組みの架け桁を作った。人々は余りに立派な出栄えに鬼神が作ったようだと驚いた。魯の殿様はそれを見ると慶に向ってたずねた「そなた、どんな技術でこんなすばらしい物が作れたのだ」。 
 慶は答えて言う「私がしがない細工師です。格別な技術などどうしてありましょう。けれどもこんな事はあります。私が架け桁を作ろうとするときは、いつでも内なる精気を決して損なう事のないようにしています。必ず精進潔斎して心を落ち着けるのです。
 三日も潔斎すると立派なものを作って褒美を貰おうとか官爵や利禄を得ようなど思わなくなり、五日の間潔斎すると、世間の評判や出来の善し悪しも気にかからなくなり、七日の間潔斎すると、どっしり落ち着いて自分の手足や肉体の事を忘れてしまうのです。こうなると心にはお上の存在も無くなり、その技巧が集中されて外から心を乱すものは消え去るのです。そこで初めて山林に入り、自然本来のありのままの形で架け桁を作るのにぴったりな材木を探し、完成された架け桁を心に思い描いて、それから初めて手を下すのです。そうでなければ手を下しません。つまり心の自然なありようで、材木の自然なありように合わせるのでして、私の細工ものが神業にもまぎらわしいとされる理由は、そのためでありましょう」。(引用元

この領域を目指さなくてはならない。

さっき「脱力」と言ったが、これこそ知性の証である。あらゆる知性は脱力に通じるとある心理学者が言っていた。確かに、仙人は完全に脱力しているようなイメージがある。空手の達人が瓦を割るときも、合気道の達人が返し技を取るときも、額に血管を浮き上がらせて力んでいたのでは興ざめである。


物を書くにしても、知性的でありたいものだ。優れた文学は常に微妙なバランスを神がかりな精巧さで実現している。音楽でもそうだ。

未熟な作品はすべてバランスが崩れている。「世間の評判」を気にするようであったり、あるいは風変わりな技巧によって。ぼくの作ったものもそうなのであって、早くこの領域を抜け出したいと思う。精神の最奥に到達したいと思うのだ。

寝る。

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