8.07.2014

夢と自己肯定と創作

世界と自分が相対するような感覚――この感覚がたまに失われそうになるので、何とか維持しなければならないなあと焦っている。

最近は、悲しいことに、内面世界に飛びこもうとしても居心地のよいスペースがないことがあって、現実世界に取り残され呆然とする日がいくらかある。ひとりで空想に浸ったり、現実を否定するということは、一般的には、惨めで恥ずかしく、危険な考え方である。だから、年を取って常識が身につくほどこうした没我的な行為は難しくなる。

世界を軽視するということ、この世の生活、他人、社会、自分の肉体が何でもない迷妄だと思うこと。この感覚は、決して中二病的な社会否定ではない。反発的・逃避的なニュアンスとはまったく逆だからだ。

自己の絶対的肯定、自分が何をやっても正しいのだという感覚を人は掴まなければならないのだ。内面世界は常に自己肯定の世界である。

 「私はかつて正しかったし、今もなお正しい、私はいつも正しいのだ」(「異邦人」/カミュ)

またこいつはバカみたいなことを言っているという人もいるだろうが、そういうひとであっても一日数時間ばかり、この絶対的肯定の海に浸る。それは夢を見ているときだ。

夢を見ているときは自分の肉体も、他者の存在もない。時間や空間すらない。全ては自分が一から創り出す。夢の中で人は世界を再構築しているのだ。世界の再構築とはつまり、創造である。
私たちの思考と感情は、眠っているときに最高の主観性を獲得するのである。(「人生と愛」 / エーリッヒ・フロム)
芸術は「夢」を見ているような作品が多いが、それは彼がイマジネーションを自由に発露させたからだ。深い自己に対する確信と肯定をもった作品は、いくばくか夢に似る。そして夢という言葉が目標や願望を示すように、ある種の理想的な姿とも言える。理想的であるとは、一切の否定の要素を持たない絶対の肯定である。それで、「理想」とはプラトンの「イデア」の訳語であるから、大げさに言ってしまえばぼくはイデアの世界に辿りつくために、上の内面世界への没我を達成しなければならないのだ。

自分という存在が現実世界から離脱して、深い内面の世界に飛びこんでいかなければ何かしらの創造はできない。世界を対象化する。あるいは、世界をもはや振り返りもしない、世界と無縁の存在になるということ。

大体、世の中の常識や何かにとらわれて創造というものができるだろうか。「ああしなければならない」「あれはやってもダメだ」なんて制約に縛られた滑稽な芸術作品がこの世にあるか(いっぱいあるけど)。

われわれの欲求だとか願望は巧みに市場管理されているので、借りものの欲求や願望で満足してしまう人は少なくない。今は反感や怒りでさえ容易に既成品を手に入れることができる。例えば政策の批判だとか、中韓などの隣国に対する怒りがそれだ。

そういった無知蒙昧から離脱するためには、現実世界から離れ、絶対の孤独に浸り、イデアの世界を追い求めるしかない。そう、孤独の要素が必要である。孤独にこそ全ての智慧がある!とニーチェさんが言ったようになあ……。

ああ、暑い。

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