8.19.2014

「ミスティック・リバー」を解釈する

ちょっとした機会があり、映画「ミスティック・リバー」を見た。優れた作品だと感じる。(細かいところは端折るので、以下は観た人向けです。)

ところで、あの中のデイブはまさにぼくである。生きるのに不器用で、社会の下層にあり、根暗、陰湿な男。まったく共感してしまったよ……。

少年期にトラウマを抱えていて、そしてギャングの友人ジミーに殺人の嫌疑をかけられるも、「死にたくなければ認めろ」と言われ、信念を貫けず屈服する(そして射殺される)。徹底的な弱者、デイブ。(あそこまで徹底した弱者の描写をされると「身も蓋もないなあ」という気がするが)

最初、あの映画では三つの世界に別れていると思っていた。ジミー(元犯罪社会の人間)に象徴される「力」の世界。ショーン(刑事)に象徴される「秩序」の世界。そして「アウトサイダー」のデイブ。

しかしデイブを「弱者」の象徴とする考え方があって、そちらの方が正しいと感じた。なにも、デイブが変態をひとり殺したからといって、(あるいはブレンダンの父親が強盗を働いたとして)彼らが弱者であることに変わりはない。弱者=アウトサイダーなのだ。

こうなると、世界は三つの世界から一元的になる。強者ジミーと弱者デイブの構築する「力」の世界と、それから距離をおき傍観するショーンの世界。「この映画は政治をモチーフにしている」という論評を見て、この確信を強めた。政治では力が全てだから。

結局デイブを殺したジミーはお咎めなしである。刑事であるショーンが全てを知っているのにも関わらずだ。弱者がひとり消えた、それが何だっていうんだ?という投げやりな提議とも解釈できる。

ラストシーンでは、ショーンが指鉄砲を作り、ジミーを殺すジェスチャーをする。これは二通りに解釈できる。ひとつはショーンがいつかジミーを逮捕するという象徴、もうひとつは拳銃ではなく指鉄砲しかショーンに向けられないという傍観者の無力さ……。(言うまでもなくここで傍観者とはぼくたち大多数の視聴者を指している)

まあ、ジミーがすでにブレンダンの父親を「ミスティック・リバー」に沈めたことをショーンは知っていたのであり、それに対し追求もせず平然としているところを見ると、後者の方が正しそうである。傍観者は常に「弱者を助けなければ、なんとかせねば」とうろちょろ動き回るが、結局強者に相対すると何もできないのだ。

あるいは、上のふたつの解釈はどちらも正しい両義的な象徴という解釈もできる。今は強者に何もできないが、いつかしっぺ返しを食うぞ、と。

因果応報――つまりカルマが、この映画のテーマのひとつであることは容易にわかると思う。「ミスティック・リバー(神秘の川)」という言葉を聞いてまず浮かぶのはガンジス川だ。このミスティック・リバーにジミーもブレンダンの父親も沈められた。ガンジス川はカルマを浄化する。であるから、犯罪を繰り返してきたブレンダンの父親も、変質者を殴り殺したジミーも、その罪はミスティックリバーによって浄化されたと考えることができる。

そして「強者故に」罪が浄化されないジミーは、因果応報の宿命を受ける。映画中では、カルマによって娘を殺された(ブレンダンの父親を殺したら、ブレンダンの子どもに娘を殺された)。そしてデイブを殺した次にはたぶん嫁が殺されるんではないかと思う。それはたぶん、ジミーの息子によって……?ここまで行くと深読みだが。しかしやけに仲の良いジミー親子の描写や母親の今後の苦労を暗示するような描写からするとたぶんそういう筋だろう。

ともあれ、あの映画、一度見ただけでは掴み切れないものがある。それだけ示唆に富んだ映画である。エンターテイメントとして見ると二流だが、あとあと反芻するとそこから得るものがすごく多い。よくできた映画だ。

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