8.13.2014

お仕事の話

無為な日常を送っている。とりたてて甲斐のない日々である。快も不快もない。退屈な満足がぼくを麻痺させる。

これが夏休みというものの実際である……。

しかしこういう夏休みも今年が最後と思うと物悲しい気持ちに襲われる。来年には労働の日々が待っている。おそらくぼくの夏休みは一変するだろう。このように無為な生活で塗りつぶすことはないだろう。「何かをしなければ」という強迫観念によって慌ただしく日々を過ごすのだと思う。もはや立ち止まって振り返ることも、潤沢な時間を使って退屈の味に飽き飽きすることもなくなる。

ぼくは労働を怖れている……。そう言われてみるとそうである。しかし人は「働きアリ」ではない。労働だけでは満足していけない生き物だ。働きアリに成りきれたら、人は幸せであると思う。

今日は楽器を練習しに部室へ行くと、嫌いな後輩がいた。なのでちょっと話をしただけで出て行った。嫌いな後輩というか、基本的に後輩は嫌いである。ぼくはエゴイストであるので……つまり自分の考えがいちばん正しいと思っている人間なので、楽器や音楽に対する姿勢に怠惰とか舐めた態度を見つけるとすぐに見放してしまう。

楽器にどっぷり浸かったぼく好みの後輩もいるけど、そういう奴は大学を中退して家業の傍ら音楽を続けたり、音大に再入学したりとぼくの元を離れていくことが多い。それはそれでいいのだが、音楽にさしたる興味も情熱もなし、時間つぶしと親睦を深めるお茶会程度にしか音楽の価値を認めていない奴らが大半である。しかしこれもいい。社会の縮図だ。もともと、音楽なんてそんなもんだ。電車の中の数十分、退屈をしのげればいい。

じゃあムーサに人生を捧げるような人びととそういうお茶会的人びとは何が違うのだろうか。美しいものにどうしても魅了されてしまう人びとは強いのか弱いのか。当然、弱いのだろう。そして弱い人間は圧倒的に男性に多いから、おそらく女性の方がしゃんとして強いのだろうと思う。

「禅とオートバイ修理技術」にあったように、芸術とは高いクオリティを求め尽くすことである……のならば、ぼくらは絶対にAKB48の曲なんかよりも、バッハやコルトレーンやピンク・フロイドを求めるはずである。……はずである。美にとらわれた人間はAKBなんて聞かない。

音楽にしても、絵画にしても、ぼくは「人それぞれ好みがある」という言葉を好まない。この民主主義的な考え方はぼくの感覚にそぐわない。良いものは良い、悪いものは悪いのだ。絶対的基準がある。ぼくの書いた林檎とセザンヌの林檎とを比べて、「でも実際、君の林檎の方が良いかもしれないよ。単純だけど、力強い赤だし」と言うひとがいればぼくはちょっと説教したくなる。

人間なによりも大事にすべきなのは嗅覚だ。このもっとも原初的な感覚で立つと、あらゆる芸術作品は平等な価値を持つ。それが紀元前のものだろうと今年作られたものでも同じである。ぼくの中で村上隆はセザンヌとヴラマンクにぼこぼこにされるし、ミケランジェロと草間彌生が大体同着くらいにある。

芸術のすばらしい点はここにあり、永続的に価値を示すということにある。その永遠性がぼくは好きだ。愛しい。しかし、それは厳しい世界でもある。芸術の舞台に立つ以上、ぼくはドフトエフスキーやゲーテの存在を無視することはできない。彼らに打ち勝とうと少なくとも努力はしないといけない。それは苦しいことだ、恐ろしいことだ。できれば投げだしたい。しかし人間にとって本当の仕事とはこういうものだとぼくは思う。
大胆さ、挑発、手法上の離れ業、そういうものこそ、まさしく小説の最も追い越されやすい部分、すなわち、本質的に追い越されることを必要としている部分を、構成しているのである。余計なものを捨て去った作品はもう一つの競争に立ち向かう。それは確かにさらに一層恐ろしいもの、すなわち完全を目的とする作品どうしの競争である。私にとっては、このことこそ作品の貴族の称号を確立するものなのである。(文学の思い上がり / ロジェ・カイヨワ)

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