8.15.2014

なぜ、そんな険しい道を行く?

今日は神経症がしんどい一日だった。ひさしぶりに外に出るとこれだ。

今草間彌生の自伝を読んでいるが彼女は完全に統合失調症である。調べたら医者の診断も統合失調症となっている。

ぼくは訳あって統合失調症患者のひどい陽性症状のときを見たことがあるけど、あれはすごいよ、ほんと。「私はこの世界の神だ!」的な突拍子もないことを延々叫び続ける。ヴォキャブラリーのタガが外れていて、「言葉のサラダ」という表現がぴったりだ。

狂気と天才は紙一重……という言葉はアリストテレスの時代から言われているが、ぼくの好きな作家や芸術家も、神経症であるか、躁鬱病か、統合失調症であるかてんかんの患いがある。というか大体の天才はこのいずれかだ。

不思議なことだと思う。なぜ幸福な芸術家は存在しないのだろう。結局のところ、芸術家というのは激しい怒りに燃えている人種なのだとぼくは思っている。怒りこそ芸術のドライビング・フォースである。これは村上隆も言っていたからそういうことなのだろう。

怒り、とは別に特定の人物だとか政治に向けるものではない。そうではなくて、ただ生まれ落ちてきたことの怒り。ドス黒い慟哭である。

そこに人間の真価があると言ってもいいかもしれない。獅子が駆けるとき、鳥が飛ぶときに美しく見えるように、人間は自分の生を怒り、呪うときにいちばん美しい……と、ぼくは思う。

ショーペンハウエルの言ったように「怒りを欠くものは知性を欠く。知性は必ずある種の『鋭さ』を生む」。これは感覚的にもわかりやすいことだ。「俺は生きていて幸せだ」なんて人がいるとすれば、それは「平和ボケ」である。

眼を開いているかぎり、平和に円満ににっこりなんていうわけにはいかない。ユートピアは虚構だからである。知性的であることと幸福であることは違う。違うどころかまったく逆の方向だ。

それにしたって、ぼくらは知性や芸術なんて投げ捨てて平和に生きても良いのではないか。少なくとも、この飽食の時代にあって食いっぱぐれはしない。ぼくらには「健康で文化的な最低限度の生活」が保証されている。大多数の人間と同じように、マイホームで暖かい飯を食べられればそれでいい。ささやかな堡塁を築いて、円満に、穏やかに暮らせばよいのではないか……。

なぜ、そんな険しい道を行く?

なぜ、行かなければならないのだろう。ぼくらは飯を食って子どもを産んでお終いというわけにはいかない。悲しいことに生きるということはそうではないようだ。

ぼくはある日文筆家になることを決意して、その後十日程度なぜ書くのかを深く掘り下げた。その結果わかったことは、自分にしかわからないことがあって、それを世界に公示したいという欲求があることだった。これはなかなかいい線いっている。

芸術家は特別にでかい十字架を背負って生まれてきた。そして特性の責具で毎日苦しんでいる。辛く苦しい生活が何を生むかといえば怒りだ。彼らは怒りに突き動かされている。パッション、エンスージアズムなんてもんの原型はたぶん怒りだろう。

ぼくらは苦しまなければならない。
なぜそうなのか?そうでなくてはならないのか?

「そうでなくてはならないのか? 」"Muss es sein?"
「そうでなくてはならない!」"Es muss sein!"

とまたベートーヴェンのあれ(opus 135 IV)を引用するが。ぼくは本当にこのフレーズが好きだ。ぼくらの苦しみはただの苦しみに終わらない。運命が然りの慰みを与えるのだ。

村上隆の弟子はロリコンだが、それを武器にニューヨークで戦っていて、今では作品がウン百万円で売れることもあるのだとか。
彼は自身の少女愛を恥じ、嫌悪し、秘匿してきたらしい。村上がその性癖をぶちまけた絵を見て、「これはいける」と確信したらしい。たぶん今は彼も自分の性癖に対して「そうでなくてはならない!」と思っているだろう……とぼくは想像する。

「探求を始めるまえ、山は山であり、河は河である。 探求を始めると、山は山でなくなり、河は河でなくなる。 探求が終わると、ふたたび山は山であり、河は河である」 ラーマクリシュナ

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