8.09.2014

ものを書く書く

今日はスティーブン・キングの「書くことについて」を読んでいた。300ページ超を一日で読んだことはたぶん過去あまりないが、特別な理由があったわけではない。ただ単に時間があったことと、平明で読みやすい文章だったから。絶賛するような本でもないと感じたが、悪くない本である。

悪くない本である――といってみたものの、読後の気分は「次に書く作品は直木賞くらいはとれるだろう」という気分にさせられるのだから、やはり良い本なのだろう。

小説自体は書いている。今朝3000字くらい新しい作品を書いてみて、けっこう気に入ったので何日かかけて書いてみようと思う。

短編はこれまでいくつか書いていたが、どれも発作的・衝動的に書いているばかりで、出来が悪い。これじゃあ時間つぶしの麻雀と大して変わらず、知的な営みとは言えない。「習作」といえば格好はつくが、ちっとはまじめに書いてみなきゃいかんな、と思うのである。
ものを書くときの動機は人さまざまで、それは焦燥でも良いし、興奮でも希望でもいい。あるいは、心のうちにあるもののすべてを表白することはできないという絶望的な思いであってもいい(中略)動機は問わない。だが、いい加減な気持ちで書くことだけは許されない。繰り返す。いい加減な気持ちで原稿用紙に向かってはならない。
「いい加減な気持ちで書くことだけは許されない」ここは同感できる。
ぼくはこのブログは結構、心を込めて書いているつもりである。とはつまり、ごまかしや偽りの感情を注意深く避けて書くようにしている。だから一見稚拙で、恥ずかしい文章でもちゃんと載せているのだ……。しかし小説の方はけっこういい加減に書いてしまっていたと思う。反省したい。

ブログと小説はだいぶ話が違う。二時間ばかりで一気に書き上げてしまう作品は楽しいのだが、何万字かにして何日もコツコツと書き上げていく作業はけっこう根気のいるものである。

ウィジャ・ボード=コックリさん?
「創作活動はウイジャ・ボードの占いでもないし、霊媒の口寄せでもない。配管工事や長距離トラックの運転と同じ肉体労働だ。(同書)」

ところで、ぼくの最近の生活は書くことと読むことに大部分が使われている。先日のように野宿してほとんど本を読まなかった、という日はあるにせよ……。毎日本を読むこと、書くことに費やしていいのだろうか?こうした日々が間違いではないこともキングは教えてくれる。
作家になりたいのなら、絶対にしなければならないことがふたつある。たくさん読み、たくさん書くことだ。私の知る限り、そのかわりになるものはないし、近道もない。
逆に、どんぴしゃの道だったのだ。まあ文筆家を目指そうという人は大抵読書と執筆に並々ならぬ時間をかけることだと思うが。

根拠のない自信

ぼくはけっこう優れた作品が書けるという気がする。数年後か数十年後か知らないが、いずれにせよすばらしい物が書けるという自信がある。この感覚は自分でもよくわからない。根拠のない自信がどこからか湧きでてくる。ぼくは人より優れた語彙を持っているわけでも、知能的に見ても「天才」というレベルではない。芸術家の家系ではないし、親戚も家族も普通の人揃いである。

ところが、なぜか書けるという自信がある。そう思いたいだけなのだろうか。数十年後の未来のぼくは今日のこの日記を読んで、悲しくため息をつくのかもしれない。しかし、なんだろう。この「なる」という自信や確信は、まったくニュートラルな感情である。

「お前には無理だ」「センスがない」「若気の至りが許される年ではない」といくら言われてもぼくは動じないだろう。未来のぼくが「頼むからまともに働いてくれ」と肩を叩いてきたら、少しは考えるが……。

マニキールの言ったように「神経症患者は、患者の現実知覚がゆがめられてるから、相対的にだけでなく絶対的に無能のものとして考えるのが一番よい」のだろうか。


まあどうでもよい。最近はこのブログが何か冗長な気がするので、すぱっと書いてすぱっと締めくくるようにしたい。だらだら書いても見苦しいだけである。

いろいろな人のブログを読んでいるが、最近のお気に入りは「流山子雑録」という日記である。筆者は昭和16年生まれというのだから驚かされる。

例えば「日本表現派ー東京ー2014展。」という記事の最後から引用する。
小保方晴子も四方八方、全方位から銃撃を受けている。笹井芳樹の後を追う、なんてことはしないでもらいたい。
恩師であるハーバードのバカンティ教授は、小保方にボストンへ戻ってこい、と言っている。
小保方、日本などとは離れ、ボストンへ行け。 
「ボストンへ行け。」でこの日の記事は締めくくられている。何の担保も迷いもない、なんというスカッとした記事だろう!ウェブ日記はかくあるべし、とぼくは甚く感動したのである。

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