8.08.2014

アンテルペラシオンに餞別を

あらゆる制約から離れてひとり沈思黙考したいと思うこともある。それは傲慢であるというよりは真摯な目的でだ。

ぼくは少しばかり陶酔を感じる。自分は正しいのだというあの感覚がぼくを支えてくれるのだ。他者の否定や無視が、ぼくをより深い狂気に駆り立てる。そう、だれも肯定しなくても、ぼくがぼくに然りを与えるのである。仲間はない。ぼくだけが、ぼくの支えとなる。ぼくは自己をして自己を豊穣せしめんとする。

ぼくという土壌はエコでクリーンなエンヴァイロメントです。
ただ必要なのは、読書による智慧という光だけ。
光以外は何も入ってこない「閉じた系」でも、ぼくの草木は生い茂り、
自分の死骸や糞尿を肥料にして、ぐんぐん育つのである。
今はまだみすぼらしい花しかありません。
これはアマゾンの熱帯雨林のような激しい生命の海になるか、
高嶺な岩山にぽつぽつ咲く白い花々になるかもしれませんぜ。

マア、気がついたら全部枯れているかもしれませんなあ……!


ぼくは危険な道を進んでいるのかもしれないが、危険ということは別に誤りではない。まあ、間違った方向でも、壁にぶつかったら方向を変えなければならない。それだけの理性は残っているだろう。今は自分の中の子どもを遊ばせてあげたい。

現代芸術に関する本を読んでいたら、「前衛が再生していくためには、『快楽』を怖れてはいけない。」と書いてあった。

本当だろうか?美術というのは苦しいものではないのか……。いろいろな疑念がよぎる。

来場者にタイ焼きそばを振る舞うことが芸術なのか。一見彫刻に見える作品が実は何百枚かの紙でできていて、来場者に一枚一枚それを土産に持ち帰らせることが芸術なのか。十数人が乗れる自転車を作って、来場者に乗らせ、ばたばたと転びながらも少しずつ前進させることが芸術なのだろうか。

みんなにこやかにハッピー、楽しんでいただけましたか、何か感じていただけましたか、どうです、芸術はすばらしいものでしょう……。これが芸術なのだろうか?来場者もいつか死ぬ。病気で死ぬ、車に牽かれて死ぬ、自殺で死ぬ。芸術にはどこか一抹の悲しさや怒りがなければ本当ではないとぼくは感じる。

とまあこのような精神状態が「快楽」を怖れるということなのだろう。快楽は何か退廃や精神の亡失に繋がるのではないかという懸念にぼくはとらわれる。芸術家はふつう、快楽を抜け出した人間だと思う。苦痛と美がセットなのが普通だ。それなのに、ふたたび快楽の領域に足を踏み入れなくてはならない。だからこそ芸術は辛いものなのだろう。


たぶん間違っていることを書いているのだろうから、もう辞める。

ぼくは自分で納得できる作品を創れたらそれでいい、と思っている。ぼくは自分にだけは正直でありたいと思っている。そのせいで、社会的生命が脅かされようとそれは仕方のないことだと思う。ぼくはさんざん自分をないがしろにしてきたから、せめてこれからは自分の本心に素直になりたいと思う、それだけだ。

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