8.20.2014

タナトフォビック・デイ

俺は朝からリンゴを食べ過ぎたように嬉しい」という戦没学生の言葉が耳に貼り付いてる。



ぼくは一歩ずつ進んでいるのかあるいは退歩しているのか。いずれにせよ年齢だけがぼくと確実に連れ添ってくれるものである。加齢とともに「死に近づいている」という実感は昔は恐怖だったが、今では少しありがたいものでさえあると思う。

人間、まず第一にしなければいけないことは自分の死を見つめることだ。今際の際になって「こんなはずじゃなかった」「死ぬなんて聞いてないよ」なんて思わないように……。

ぼくたちは必ず死ぬ、それは半世紀後かもしれないし、今日かもしれない。そしてだれもぼくらと一緒に死んではくれない。生まれたときと同じように、死ぬときは独りだ。「君の代わりに死ぬよ」なんていうコルベ神父のような人は普通いない。そして、ひとは必ず死ぬ。必定だ。この世に絶対があるとすれば、ぼくらは近い将来「死ぬ」ということである。

なるほどこの生は死ぬための準備と言ってもいいかもしれない。

死を見つめることは辛く苦しいことだ、どうしてこの肉体が果て無に帰さなければならないのか。あんまりじゃないか。勝手にぽんと産まれだされて、目を開いてみれば死の十字架を背負っている。

だから現代には死から目を逸らすようなものがたくさんある。会社、社交、政治、新聞、テレビ、漫画、性風俗、などなど。でも、いざ死ぬとなったらすべて他愛のないものだろう。

「あれをしておけばよかった、これもしておけばよかった」

と死ぬのだけは勘弁だ。

われわれは幸福になりたいと願う。だからだれしも幸福を求めて奔走する。ただ、幸福の形はまったくひとそれぞれ違う。これほど認識が個々人でずれている概念も珍しい。

ある人は安定した仕事、ある人は刺激的な仕事に没頭することに幸福を見出す。ある人は権力を追求することに幸福を感じ、ある人は全てを知ることを求め、ある人はたくさんの友人や暖かい家族に幸福を見出す。

どれが正しいとはぼくには言えないが……。ロールモデル的な幸福ばかりでないことは知っておきたいものだ。保険のテレビCMでやるような円満な熟年夫婦……だけが幸福ではないということだ。

死の優れた点……。われわれは死を前にして平等である。だれもが死ぬ。総理大臣も掃除夫も、平等に死ぬ。世の中にこれほど平等なことはないかもしれない。だから創造の源泉が死にあるとすれば、その創作は万人の心を打ち振るわせることができるとぼくは秘かに思っている。

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