8.20.2014

freaks

とりとめもなく、書く。もはや書くこと以外欲することはない。何かを表現したいわけでもない、ただ書きたいから書いている。まあ、日記だしね。

今日は一日憂鬱だった。昔好きだった女を久しぶりに見かけたからだ。……ああ、こう書くと一気にくだらなくなった。しかし当人からしてみれば、失恋の痛手は大きい。なんてことのない女であることは重々承知している。ぼくの悩みが陳腐であることも知っている。しかし、恋愛とは常に病気であるので、その苦しみは当人でしかわからない。

それで一日憂鬱だった、友人たちに冗談を振りまいて、大きな声で笑いながらも……それは寂しいからだ。寂しいから笑っているのだ。ぼくは俗世を軽蔑していながら、そのときだけは俗世の持っている温かみにすがる。

じわじわ、じわじわと、鬱の圧力が加わってきて、脳みそを麻痺させてくる。で、ついには完全な「鬱モード」に移行する。この抑鬱の見事なグラデーションは、むしろ人間の防衛機制ではないのかとすら思う。妙にあたたかく心地よいのだ。

この感覚は過去に何回も味わったから、懐かしさすら感じる。15歳頃は週に五日は来ていたし、最近では月に二、三度というところだが、この鬱が到来する毎に人生にピリオドが打たれたような気分で気持ちいい。人生にリズムの彩りが加わるのだ。

そして、その抑鬱の海に身を沈めること、これもまた気持ちよい。苦痛に悶え苦しむ自分の湧きで、ああ、人生の味ってこうだったよな……と。こうだった、こうだった!これが人生だ!とね。帰ってきたぞ、俺は、生きている、ちゃんとした世界に帰ってきたのだ……と暢気に喜ぶ自分もいるのだ。

結局のところ、ぼくは女なんて手に入れられないのだろう。結婚も無理、だろう。少なくとも「幸福な」結婚は。それは確定事項であって変えられない。なぜならたぶん、愛することができないから。まあ、「そういうものだ」と思ってしまえば、人間なんでも乗り切っていける。

Aimee Mannの"Save Me"のフレーズを引用する。

Come on and save me...
If you could save me,
From the ranks of the freaks,
Who suspect they could never love anyone.
ねえ 私を救って / 自分は誰も愛することができないのかも知れないと疑っている / 奇妙な変人たちの隊列から / 私を救えるのなら・・・

エイミーも入っているし(あの神経質そうな顔立ち!)、ぼくも入っているこの隊列。たぶん安吾や太宰も入っているだろう。太宰が女と入水自殺したとき、安吾は言った。「元々、本当に女に惚れるなどゝいうことは、芸道の人には、できないものである。芸道とは、そういう鬼だけの棲むところだ。」(しかし入水自殺とはロマンティックで、太宰らしい)
そして当然、「ムルソー」や「ロカンタン」もそうだろう。

「地獄とは何を言うのだろうか?わたしの意見では、それは愛することのできぬ苦しみにほかならず、この地獄には永遠の時間も要らない。一日、いや一瞬間ですら十分なのだ」(カラマーゾフの兄弟)

芸術の慰みとは、教養の慰みとは、そういうものだ。私と似たような"freaks"がいたのだ。そしてその"鬼"は、無軌道に生きているように見えて、実はきちんと役割を持っていた。そして凡庸な幸福者には達成できぬ偉業をなしえたのだ。……こう思うこと、これが最大の慰みになる。

なぜって、ぼくら「不器用な人間」「逸脱した人間」の味わう人生の痛みが、もはや何の意味も持っていないとしたら?

ぼくらの苦しみは単なる「錯誤」であり、「欠陥」に因るものであり、苦しんだらそれだけで終わるものだとしたら?

きっと人生に悲観して、太宰のように美しくもなく、ただ単に命を絶つだろう。それは絶命のための絶命。ある部屋から別の部屋に移動するような、単純な意味での絶命。

そうして命を絶つ人は現代日本にいくらでもいる。これは悲しいことだ。ぼくにできることと言えば……そういう錯誤から一人でも救うことだと、僭越ながら思っている。一筋の光を照らしてあげること……。

まあ、ぼくはただのつまらない人間だ。ただアルコールとカフェインとニコチンと神経症と過去のトラウマがぼくに筆を握らせる。ほんと、ぼくはくだらない人間です。でも、書きたい。

0 件のコメント:

コメントを投稿