8.05.2014

It's been so long

ぼくの書いている内容が次第に観念的に落ち込んで行くのを見るのはおもしろいことだ。

ぼくはすでに何かを意志して書くのではない。もはや書こうという意志すらない。食事を摂るように、排泄するように物を書いている。

これだけ書いていると、何か日常的な出来事を書くことがつまらなくなってくる。今日は楽器がここまで上達しました……。論文が行き詰まってます……。女の子とうまくいかない……。といったこと全て、表象的なことに感じる。

世の中にはひとつの基準しかない。上か下か、である。ぼくはその間を揺れ動く。基本的にぼくの日々は、上に昇る方法の模索と実践に費やされているが、それすら意志の仕事ではない。かえって意志のしがらみから離れようというところにある。

意志とは何か?ぼくは脳による味気ない作用だと思っている。肺が、腸が純然たる「生きるための器官」であるように、脳もまた「生きるための器官」に他ならない。「脳とは情報削減装置である」とある生物学者が言っていたがそのとおりで、生きていくのに必要なように、「理性的に」「功利的に」精神を導くものが脳であると考える。その作用が「意志」である。

西田哲学的に言えば脳による削減を受ける前の、「主客未分」の「純粋経験」を追い求めなければならないということだ(西田哲学はぜんぜん理解できてないので間違ってたらゴメンナサイ)。

人間には本来、高みに昇ろうという意志がある。これこそが精神の世界のはたらきである。

といって、「意識高い系」のことを指しているのではない。彼らはろくでもない連中だ。
(安い居酒屋に行ったとき、横に意識高い系の学生連中(H大学の文系らしい)がいたことがある。本当に耐えられなかった……!海外旅行だの……起業だの……大声で喚きちらすが夢物語だ!悲しい夢物語だ!なぜ彼らは主人然とした顔で笑うのに奴隷的に見えるのだろう。)


……そうではなくて、人には本来的に生を全うしたいという意志がある。そうした意志は「商品」過剰の現代では見えにくくなっている。現代社会においてひとは普通、商品にかきたてられた欲望を商品の消費で補う。だから日常的な人間の生活はこうした意志とほど遠い。

こうした「よく生きる」意志というべき感情は、商品や消費の力の及ばない不遇な環境の中によく見られる。

例えばガン宣告を受けた男性の中に、聴覚障害者の中に、腰の曲がったおばあさんの中に、中東の傭兵の中に、ブラック企業の社員の中に、交通事故加害者の中に、あるいは精神病者、音楽家や詩人の中に見られる。

(ガン宣告を受けた男性、聴覚障害者、腰の曲がったおばあさん、中東の傭兵、ブラック企業の社員、交通事故加害者、精神病者、音楽家、詩人……。ぜんぶぼくにとっては美しい人たちだ。ぼくはこういう美しい人たちに囲まれたいと思う)

ぼくの日々は上下に揺れ動く。一日で昇れる量は少ない。高みの先になにがあるかはわからない。あるいは何もないのだろう。しかし、何もないこともまた素敵なことだと思う。

高みに昇ろうとしたって……志半ばで死ぬこともあるだろう。それでもぼくは自分の運命を呪うことはないだろう。高みに昇るとは、そういった慰めを持つ行為である。高みに至ることに価値があるわけではない。むしろ到達することは本当に可能なのだろうか?という気がしなくもない。

ああ、それにしても日々の積み重ね、自己との対話!
もはやここにあるのは自分と言語の二つだけだ。ぼくはこうした新しい慰みを得たことを嬉しく思う。孤独の世界が持つ豊穣さのなんと美しいことか。




まあそんなことを考えて、
いるの、
でした。

今日も楽器を練習しよう。

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