8.06.2014

アヌス、他。

また日記的な何か

財布が見つかる。

財布をなくした。一昨日から夏期休暇が始まったのだが、それと同時に財布がなくなり、身動きがとれなかった。昨日から探しているがどこにもない。

記憶を辿ってみると、最後に財布を使ったのは部室に行く前コンビニでパンを買ったときである。そして帰りにガソリンスタンドで財布がないことに気がついたから、学校にあることは確かだ。

まさかと思い、部室のゴミ箱を漁る。そうしたら、コンビニのレジ袋の中から財布が出てきた。ぼくは自分のアホさにあきれかえった。レジ袋をゴミと一緒に捨てたのだが、その中に財布が入ったままだったのだ。

このパターンが非常に多い!ゴミ箱から財布を救出、燃えるゴミの袋から救出、ということが度々あるのである。

しかし、見つかったときの歓びが全てを許してしまうので、ぼくは反省できない……。一円も得していないのに、この「ほくほく感」は妙なものである。

幼児の原初的な遊びに、遠くにおもちゃを投げて、再び手に取るというものがある。幼児はこれによって母親と離れなければならないときのような「喪失体験」を再現しているのだという。同時に、母親は必ず戻ってくるという信頼と幸福。

財布をなくして、そして見つかったときの歓びはこれに似た感じがある。本当になくしてしまったことも多々あるが……。


二十五歳から音楽始めてミュージシャンになれますか?

という質問をネットで見た。予想通り、「ここで聞いてる時点で無理」という回答が多い。

質問者は大学を二留している。そして就職活動をしておらず、大学を卒業したら数年間音楽家になるべく特訓をしたいのだという。

ぼくは一応、楽器を何年かやっているからわかるが……。別に大丈夫じゃないの?と思う。まだ二十五歳なら感性が乾いてしまう前だろう。ただ十代や二十代前半のプロ志望と比べて圧倒的不利である。そのことを自覚して、死にもの狂いで練習すれば、「プロ」にはなれる。

「二十五歳からプロのサッカー選手になろうというのと同じだ」という回答もあるが、これはとんちんかんだ。楽器はフィジカルでやるものではなし。基本的には技術と精神の世界である。それに、プロサッカー選手のようにパイが限られているわけではない。どちらかと言えば、伝統工芸の職人になれますかというのに近い。

そりゃ世界的なミュージシャンになることはまず望めない。だけど、その辺の音楽教室の講師になるくらいは可能だろう。案外、音楽家というのもいい加減なもんで、「プロミュージシャン」と言うと人は大げさに驚くが、大した技術も哲学も持っていない人なんていくらでもいる。でも初学者(音楽が趣味の人の90%)にとっては雲の上の存在だからボロはでない。

彼らは音楽教室と場末のライブハウスで小銭を稼いで、信じられないほどぎりぎりの生活レベルで暮らしている。四十歳にもなって風呂のないアパート暮らしなんていうステキな生活だ。

幸福になろうというのなら、プロ音楽家にはならないことだ。しかし幸福になることを捨てて、ただ芸術の道を歩みたいというのならだれにも引き留めることはできないだろう。

結局、質問者は「定職に就いてその傍らで音楽活動をしていきたい」というところに行き着くのだけど……。まあ、普通そういうところに落ち着くんだろうな。
しかし彼はプロにはなれないだろうという気がする。ただでさえスタートで出遅れている。それに加えて、会社勤めの妙な満足が彼をだめにする。「俺の人生、そんな悪くないやん?」と思い始めたらそこで音楽家の才能は死んでしまうのではないか。ニーチェの言ったように、「無事安泰は終末である」。

ところでぼくが友人から譲り受けたベースは、左利き用のベースだったことが判明。そりゃあ弾きにくいわけだな……。

「禅とオートバイ修理技術」上巻を読む。

禅とオートバイ修理技術の上巻を読んだ。寝て起きて読んだら300頁過ぎていた。これは非常によさそうな本なので下巻を注文した。上巻で終わってしまっている本はたくさんある。「存在と時間」や「赤と黒」がそうだ。だから長い本は根気が続かないのだが、これはところどころバイク・ツーリングの描写があり飽きさせない。

以下書き抜き。この三倍くらい書き抜いたが、下巻を読んだときのためにとっておく。

真理がやってきて扉を叩くと、「あっちへ行け、私は真理を求めているのだ」と人は言う。だから真理は立ち去ってしまう。不思議なことだ。
もし人間の知識のすべてが巨大なヒエラルキーを構成しているとすれば、精神の高地は、最も一般的かつ抽象的な考察において、その最上部に位置している。
しかしここに足を踏み入れる人はほとんどいない。そうしたところで何の実益もえられないからである。だがここには、この物質世界同様、それ特有の厳粛な美がある。ここを旅する人にとってその辛苦が報われるのは、この美あればこそなのだ。
芸術と工芸とを分離するのはまったく不自然なことだ。(中略)遠い昔のことだが、回転肉焼き器の組み立て方だって、実際は彫刻の一部分だったのさ。

なかでも一番好きなフレーズはこれだ。
現代の理性は、地球が平らだと考えていた中世期の理性と大して変わりがない、と私は思っている。理性を超越してしまうと、向こうの世界、つまり狂気の世界に落ち込んでしまうと思っている。そしてだれもがそれを非常に怖れている。この狂気に対する恐怖は、かつて人びとが抱いた地球の端から落ちてしまうという恐怖に勝るとも劣らない。

もう、完全にバイク小説ではないね。


楽器練習の帰り、ブックオフでプラトンの「パイドロス」(310円)とプルーストの処女作「楽しみと日々」(108円)を買う。安い。読書とはなんて経済的な趣味だろう。

ぼくは文字が読めればどれだけ汚くても構わない(ただし線引きだけは別)。だから基本的にいちばん安いもの買っていく。新潮の「ランボー詩集」はあまりに汚いので鍋敷きに使っている。たまに開くと料理の待ち時間にちょうどいい。本を冒涜するな!と言われそうだが、これが正しい本との付き合い方という気もしなくもない。本なんて所詮媒体だ。大事なのはその情報であり、精神だ……。

家に帰るとスティーブン・キングの「書くことについて」という本が届いていた。しかしあまり読む気が起きない。アメリカ文学は不思議と食指が沸かない。じゃあ買うなというところだが、手元に置いておきたい本である。

風呂でパイドロスを読んでいると、さっそく少年愛がしれっと出てくるので苦笑する。藤本ひとみの「侯爵サド」のなかに肛門姦に関する発言があったのを何となく思い出す。
「尻でやるというのが自然の意志でなければ、尻の穴が、男の一物にあれほどぴったりにできているはずはない。どう頭をひねってみても、丸い一物のために、膣という楕円形の受け口が用意されるなどと言うことは、考えにくい物だ。」
同時に「自由からの逃走」を書いたエーリッヒ・フロムは「同性愛は病的である。尻の穴はどう見ても排出するための器官である」と息巻いていたことも思い出す。ユダヤ人に対する虐殺はなくなったが、同性愛は認められつつある社会を彼はどう思うだろう。

(最近のマイノリティーの傲慢さはちょっと嫌である。日本でもアニメオタクやロリコンが声高に権利を主張しているようなところがある。多様性は単に許容すれば良いというわけではない。ぼくは人を病的な領域に安住させるような「許容」は悪だと考える)


最近はあまり本を読んでいない。楽器が楽しくてしかたない。楽器か、書くか、読書で一日を埋めているのだから、もっと読書に時間を割けそうなものである。夏期休暇中なので、がっつり重たい本を読みたいという気もする。

しかし生活の喧噪の中で、じっと本を読むということ、これは意外と難しいものだ。ぼくだって、当時二十五歳の彼のように全てをうっちゃって読書に費やしたいと思うときもある。しかし、これは非現実的なのだろう。人には生活が必要だ。生活からは逃れられない。そして、生活は必ずしも無価値なものではないと最近は思う。

だから生活の中でなんとかやりくりして本を読むしかないだろう。一日数十頁でも、とにかく読むことだろう。

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