9.01.2014

たぶん人間には固有の役割がある

過去の日記を読んでいると、むずがゆい気持ちになってくる。ヘタクソだったなと。二ヶ月前の日記と、直近に書いた日記を比較してもそうだ。まあだいたい酔っ払って書いているので、夜書いた手紙がアレなのと同じく、大体こっ恥ずかしいことを書いているのだが……。

恥ずかしいことでも何でも書いてみようじゃん、というのがこのブログの趣旨であって、疑問に思うことは何でも書くし、本人が正しいと思っているだけで、間違っていることでもばんばん書くよ。



ここ数日は実家に帰っていた。バイクで方々を遊び回ったり、家で静かに読書をしていた。コリン・ウィルソンの「自己実現の心理学」という本を読んだ。この本はウィルソンが心理学者マズローについて書いたような体裁である。しかし途中からウィルソンが興奮してきたのか、散漫に思いつくまま書きましたというような流れになっているのがちょっとよろしくない。途中から退屈した。

至高体験

マズローの言うところの「至高体験」は、ぼくも体験したことがある。あれは震災一年後のことだったと思うが、読書の習慣を始めて数週間後のことだった。そのときは、授業が終わったら自習室に行き、二十三時頃まで本を読むという生活をしていた。その日読んでいたのはまさに「マズローの心理学」というフランク・コーブルの本であって、その内容はまさに至高体験についてであったのだが、その至高体験の項を読んでいるときに「至高体験」した。

至高体験とはマズローによれば「そのひとの人生でただひとつもっとも嬉しく幸せな、もっとも幸福な瞬間」・・・人間が十分に機能しており、強壮な感じがし、自分に自信を持ち、完全に支配している瞬間のことである。

例をあげると、「ジャズバンドのドラムを演奏して働きながら医学校へ行ったある若者は、彼の全演奏のなかで、突然自分が優れたドラマーであり、自分の出来映えは完璧であるように感じる絶頂を3度味わったと後年報告した」というような体験である。他に、ある主婦が旦那と息子が戯れている光景を見て至高体験したという例もある。

至高体験とは実存への目覚めであると思う。つまり、絶対的な自己肯定感に満たされるような気分。ぼくはそのときに「至高体験童貞」を捨てたわけだが、そのときの強烈な感覚は今でも覚えている。いわば突然美しい勝利の音楽が鳴りだすといった気分であった。自己が充足し、完全に自由であるという気分になった。自己の然りが全宇宙に放射されるような……抽象的で申し訳ない。とにかくそれは、これまでにない感覚であった。

コリン・ウィルソンは至高体験によって人が「格上げ」されると言うのだが、たしかに一段階上の世界に昇る感覚があった。その日の至高体験前の状態と、体験後では人間が変わった気分になったものである。つまり、ある大仕事を達成したときに手をじっと見つめて、これが私の手なのかと疑問に思うときと似ている。

特にぼくの至高体験は強いものだったと思う。ぼくのそれまでの人生は、過度に抑圧されていた。自由意志というものがなく、自分が何をすべきかも知らず、人生の意味を知らなかったわけだ。目が開いていなかった。それが、読書体験によって、世界の広さを、意味をはじめて知ったのだろう。抑圧され、鬱積した自由意志が、読書によって放出されたと言うこともできる。

至高体験は、その一度の他に、何度か読書中に訪れた。大体、義務を終えたあとの静かな環境で、清潔な机に座りながら本と対峙している最中に訪れた。それはニーチェを読んでいるときだったり、ヘッセを読んでいるときだったが、決まって本を読むときに訪れた(楽器演奏中にも小さな至高体験は何度かあったが)。

二年前の読書中に至高体験を受けて、ぼくはなぜか文筆家になろうとしている。不思議な縁だ。そこで思うのだが、たぶん人間には固有の役割があるのだろう。人間は自由であれば、その役割へとまっすぐ突き進む。政治家、芸術家、医師、旅人……。ところが、親や社会、集団の強制によってその性向は無意識下に追いやられてしまう。医者一家に生まれれば必然的に医者となるし、芸術家一家であれば、音楽や絵画をやらされる……。

しかし、抑圧されたその役割の萌芽は、絶対に消えることはない。ふとした拍子に、コンクリートの壁はひび割れて、これまで抑圧されてきた自己実現への欲求が噴出する。その劇的な瞬間が「至高体験」なのだと、ぼくは思っている。

ジャズドラマーの医学生の例ではおそらく、医者よりもドラマーの方が向いているのだろう。まあ、音楽愛好家やアマチュア演奏家でも良いだろうが……。

主婦の例であれば、幸福である。おそらく女性の幸福、正しい幸福を彼女は得ることができたのだ。誤解を怖れずに言うと、たぶん男性の役割は多様だが、女性の役割は主に「妊娠」や「家庭」といったところにあると思う。主婦の彼女が、仮にハイミスのフェミニストだったら悲惨な人生を送ったに違いない……、とぼくは思う。

ヨナ・コンプレックス

ところで、同著の冒頭にヨナ・コンプレックスという言葉が出てきた。マズローが講義中に、「これからの心理学を牽引していくという気概のある学生はいるかな?」と聞いたところ、その心理学部の生徒たちはだれひとり手を挙げなかったという。マズローの講義を受けているエリート達がである。この当事者性の欠如は、けっこう身に覚えのあることだ。

例えば東大生の集団に向かって、これからの日本を導いていく気概はあるか?と聞いたらたぶんそれほどの人間は手を挙げないだろう。何となく働いて、稼いで、偉くなって、幸福ならそれでいいや……とだれしもが思っている。

別に東大生でなくても、ぼくらは現代に生きて、一時代を担う人間なのである。フリーターでも引きこもりでも、この時代に生きている以上は何かしらの使命を持っているのだ。俺が時代を牽引する、という意識を持っても全然罪ではない……どころか、それはもう厳然たる事実なのだ。君たちが、牽引しなければ人類は前進できないのだ。

ぼくたちは、ただ生まれて、死ぬようにはできていない。各々の役割を見つけることが、たぶん生きるために必要なことである。そうして始めて自分の人生を生きることができるのではないか、とぼくは思う。

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