9.01.2014

短編小説「ある作家志望の夏」

「書きたいことを書くのがいちばんだよ」

 とカナコが言う。ぼくは日光を浴びたステンドグラスのどろんとした色彩を眺めている。今日も三十度を超える猛暑日で、弱いクーラーが効いたこの部屋でも湿気があって、まったく、暑い。ぼくが汗を拭っても、カナコは超然とした顔で、背の立ったベッドで、布団を腰まで被っている。

 彼女は暑くないのだろうか。彼女の黒髪は、すとんと迷いなく肩に落ちていて、眉毛はあまり整えられていないがそれでも自然な生え方をしている。そうして眼光は落ち着いていて、ぼくの顔を見ていた。ぼくはどぎまぎしてまたベッドサイドのステンドグラスに目を移した。なにか返事をしなければという思いで、

「書きたいことかあ」

とだけつぶやいた。

 ぼくは作家志望の三十二歳のフリーターである。深夜のコンビニバイトをしながら、それが終わると小説を書いている。しかし、最近はまったく筆が進まず、コンビニバイトのシフトもがんがん入れられてしまうので書く余裕もない。生活が完全に行き詰まっていた。



 カナコはたぶん二十二歳くらいの若い女なのだが、彼女とはネットで知り合った。ある文学投稿サイトで投稿した作品が、彼女の目にとまり、そこからたまに会うようになったのだ。彼女は何か病気を患っているらしく、会うのはいつも彼女の病院のベッドだった。○○大学付属病院、中央棟南、1101号室。「ここが私の住所」と彼女は笑っていた。

 彼女とは別に恋仲というわけではない。純粋なフレンドリーシップを保っている。彼女には大学生の恋人がいるのであり、だいいちコンビニ店員のぼくが彼女のような美人と付き合えるわけがないのだ。それにしても――ぼくは生活の中にこの少女がひとりいるだけで、ずいぶん救われる思いがしたものだ。仕事終わりの午前十一時、彼女の元を訪問することが週に一度の楽しみだった。

 彼女とはいろいろなことを話した。彼女も文学が好きで、シェイクスピアやドフトエフスキー、ゲーテを語った。あるいは生きること、死について……。ナースや医師が聞いたらどう思うだろう?病院のベッドサイドで死の話なんてナンセンスだ。しかし咎められることはなかった。この病室は個室で、プライバシーが守られているのだ。大学病院の個室だからきっと入院費は高いだろう。両親が金持ちなのか、そうでなくても娘にせめて快適な入院生活を送ってほしいのかもしれない。

「ぼくには書きたいことなんてないよ。もうなくなってしまった。毎日、コンビニで同じように接客して、泥沼みたいな生活のなかで、書くことと言っても、昔の恋愛とか、学生時代の思い出でね……。」

「でも、あなたは書きたいんでしょ?書きたいから作家志望なんでしょ?」彼女の顔は、夏の日差しを横からあびて、おそろしく陰影をはっきりとさせている。本当に美人だ。

「何かを書くとすればテーマが必要だよ。訴えたいことがなければ、作品は質量を持たないんだ。質量の持たない作品はぼくは嫌いだ。ふわふわして、どこかに飛んでいってしまうからね」

「私はむしろ、あなたのふわふわした作品が好き。なにか曖昧なことを表現しようとして、がんばって、失敗している……。あ、ごめんね」と彼女は笑った。

「ぼくなんかより、カナの方が創作には向いている気がするよ。最近は何か書いているの?『なろう』では書いてないみたいだけど」

「少しずつ、書いてはいるわ。今度はやたら長ったらしい奴。入院生活は、退屈だから……。毎日おいしくないご飯を食べて、することと言えば書くことと読むことくらい。でも、そんな生活って意外と悪くないわね」

「いいね。ぼくもせめて、朝起きて夜眠れるようにしたいもんだ……」
 カナコの顔に少し陰りができた。しまった、と思った。

「……そうね。ごめんなさい、今日はこれから新しい薬を飲まなきゃいけないの。また来週きてね」
 彼女は窓の外を見つめたまま、こちらを見なかった。しかたない。

「ああ、またね。」

 まずいことを言った、と思った。彼女だって望んで入院しているわけではない。それを羨ましいことのように……。なんてことだ。ぼくは三十二歳にもなって、社会的常識すら身についていない。当たり前の感情をどこかに置き忘れたのだろうか。

 自己嫌悪に陥りながら、エレベーターのボタンを押した。中年の夫婦が入れ違いで出てきた。彼らも見舞いにきたのだろう。たぶんどちらかの親を見舞いにきたのだろうが、そうではなくてカナコのような若い娘だとしたら……もの悲しい気持ちになった。



 翌日。コンビニのバイトに精を出す。このコンビニの、二十二時からはぼくの世界だ。店員はぼくひとりしかいない。ぼくは商品の陳列をきれいに整える。コンビニの床をぴかぴかに磨く。客がくれば、てきぱきと対応する。決して親しみを込めて接客をしないことがコツだ。深夜の客たちは、レジ打ちに人格なんて求めちゃいない。そんな煩わしいものはいらないのだ。客は金を渡し、商品を受け取る。ぼくは金を受け取り、商品を与える。

 空が白んできて、オーナー夫婦と、朝番の学生の子がくる。彼女は教員志望の女子大生で、かわいらしい顔をしている。一度飲みに誘ったこともある。下心がないと言ったら嘘だが……。

「ぼくはね、作家志望なんだ。一度賞に出したら当選したことがあってね。そのときの賞金で二〇万円も貰えたんだ。ぼくはそれを頭金にして車を買ったんだよ」

 なんて酔った勢いで自慢したが、彼女はバカを見るような目でぼくを見ていた。そりゃそうだ。彼女にとってぼくはフリーター。作家志望ではない。彼女でなくても、ぼくはフリーターだ。「フリーター」。バカみたいな響きを持った言葉だ。だから、バカにされてもしかたない。彼女を見るとそのときの思い出がいつも浮かんできて、死にたくなる。

 オーナー夫妻に、元気よく「おはようございます」と言う。夫妻はぼくをこき使っているにっくき資本家だが、彼らもまた本社にこき使われているのだからやりきれない。朝は客がどしどしやってくる。このときのコツはとにかく速く、だ。そして元気よく、だ。忙しげに流れていく客たちに気持ちよく一日を過ごしてもらうためにぼくは声を張り上げる。

「ありがとうございました!またお越しくださいませ!」

 朝のラッシュが終わると、レジの違算をチェックして、日報を書いて勤務終了だ。ところが掃除だの雑用を任されて、九時退勤のところが、だいたい九時半とか、十時退勤になる。この分は給料にならないが……しかたない。このご時世、雇って貰えるだけでもありがたい。

「お疲れ様でした!」

 オーナー夫妻に挨拶して、彼らの気のない返事も気にとめず、コンビニの外に出る。労働のあとの快い疲労感。外は、明るい!まったく明るい。途中、牛丼を買って家に帰る。自転車をこぐ。蒸し暑い。牛丼は、不味い。これが、ぼくの生活だ。ぼくの生活……。また翌日起きれば、二十二時から出勤なのだ。パソコンには書きかけの原稿があるが……。今日は開かなかった。いつでも書けるさ。いつでも。

 ぼくの生活は、不味い。ちんけな牛丼と似た味だ。オーナーはぼくに店長にならないかと言っている。「君なら向いていると思うんだよね。仕事はきっちりこなしているし、新人の教育もよくできているよ。社員になれば、いろいろとメリットもあるんだよ……。」
 店長か!たぶん一層給料は悪く、待遇も悪くなるんだろう。「腰掛け」でバイトするわけにはいかない。きっと、もう何も書けなくなるだろう。

 ネットで動画を観ていたら正午になってしまった。眠らなくては……。ハルシオンを一錠、チューハイで流し込む。すっと眠りが、人工的な眠気が視野の外からぼくの意識を沈めにかかる……。ハルシオンには抗不安作用もある……。この白んだ気分が、一日の救いだ……。



 やっとカナコに会える。病院は清潔でクリーンで明るいので好きだ。エタノールと次亜塩素酸の匂い。看護師は元気に仕事をしている。医者は優しく知性的で、自信に満ちている。カナコの病室にいく。もう何度訪れただろうか?彼女に面会するたびに、新鮮な喜びがある。

「やあ、カナコ」本を読んでいた彼女は、ぼくの顔を見上げると、ぱっと顔を明るくした。

「久しぶり。ねえ、聞いて。新しい薬を試したら、少し良くなったの。もしかしたら退院できるかもしれない」

「本当か。それは良かった」ぼくは驚いた。彼女がぼくに病気の状態を語ること自体が珍しかったし、それも快方に向かっているのだ。

「私、ずっと外に出たいと思っていた。今でも、たまに外出はさせてもらえるのよ。公園を散歩したり、美術館やブティックへ行くくらいはね。でも、一日自由に、ディズニーランドに行ったりとかはできなかったの」

「ディズニーランドか、なんだかカナコらしくないな」

「ひどいわね。私は陰気な文学少女じゃないのよ。元気なときは、アクティブであちこちに遊びに行ってた。あ、ねえ、ディズニーランドよりも海がいいかもしれない。海が見たいなあ。潮の匂いと、波のさざめき……。」

「海、いいね。ぼくも行きたいと思うよ。青い空、青い海、白い砂浜……。海かあ、考えただけでも良いものだね。ここから見える景色も、ビルと看板だらけだし」

「ね、退院できたら、海へ連れて行ってね。約束だよ。ドライブね。あなた、前に自慢してたじゃない。文学賞で車を買ったって」

 ああ、彼女にも自慢していたんだった!ぼくは唐突に、大笑いしてしまった。コンビニの店長を勧められていること、作家志望であること……。日常の嫌なことが全部消えて、全部がバカバカしいことで、楽しい気持ちになった。大笑いして、涙まで出てきたので人差し指で拭った。カナコは怪訝そうにぼくの顔を見ている。

「ごめん、ごめん。いいよ、どこへでも連れて行ってやる。退院する日が決まったら、すぐに言うんだよ」

「うん!」

 病室を出て、空を見上げる。ああ、すばらしい日々だ。ぼくの前途は……明るい。夏の日差しと同じくらい明るい。

 それからの一週間は、元気よく過ごした。一日一日が肯定的だった。店長になることは決断していなかったが、なっても良い気分だった。仕事はやりがいがある。とくに、夜のひとりの時間は好きだ。コンビニの質を維持すること……。キレイに整頓された状態にする仕事は、根源的な喜びがあった。作家志望……。それが何だというのか?モラトリアムだったのだ。長い、モラトリアム。ぼくもどこかに落ち着かなくてはならない。オーナー夫妻も悪い連中ではない。女子大生のバイトもよく来る。悪くない生活じゃないか……。

 仕事が終わると、車をぴかぴかに磨いた。なんてことのない軽自動車だが、都内で車を持つことは覚悟がいる。金がかかって仕方がないのだ。しかし、どうしても車が欲しかった。自分だけの空間と、どこかに行ける手段が欲しかった。カナコを乗せるとなれば……ぴかぴかに磨いてやろう。カナコ。カナコはまた、退屈な入院生活を送っているのだろうか?ぼくがあげたジョイスの本は読み終わっただろうか?彼氏はちゃんと見舞いに来てくれているだろうか?


 土曜の面会時間、ぼくは受付の女性に言う。

「1101室の、カナコさんの見舞いにきたのですが」

「少々お待ちください」

 事務の女性は、PCで何かを調べている。ちょっと様子がおかしい。いつもと違う。ぞくっとする気分がぼくを襲った。動悸が速くなる。
 彼女は眉間にしわを寄せて、こう言った。

「まことに残念ですが」

 残念ですが?

「カナコさんは、お亡くなりになりました。葬儀の日程は……」

 お亡くなりに、なりました。そうですか……。わかりました……。

「そうですか。わかりました。また来ます」

 自分の言っていることの意味もわかっちゃいなかった。ぼくは呆然と病院を出た。夏の日差しが、ぼくを焼く。病院を出入りする車が現実味を帯びていない。都市の喧噪がわああっと、ぼくを襲う。ぼくはどこにいるのだ。彼女がお亡くなりになった。お亡くなりになった。死んだ。死んだ?まさか。カナコ……。



 PCを起動する。

 メールが届いていた。

件名「Re:」
「体調が急に悪くなりました。血を吐いて、吐いて、ぐるぐる目が回って、意識が飛んで、今は少し楽だけど、もう長くないかも。うまく書けないけど、私は鉄さんに会えてよかったと思うよ。死ぬことは怖くないけど……。でも、作品が未完に終わったのが少し残念。あなたは、書いてね。ねえ、すごく苦しいよ。でも、鉄さん、夢を諦めないでね。私は、お母さんになりたかった。幸せなお母さんに……。でも、無理だったの。あなたは、書いてね。すごい作品を書ける人。私と会ったことを、忘れないでね」


 夏の海岸を歩く。足の裏はやけどするくらい熱い。夏の空と海は嘘みたいに青いが、全部、現実だ。

 ぼくは疑問だった。なぜ彼女のような、毅然として、聡明で、美しい女が死ぬ運命にあり、ぼくのように半分死んだ人間が生きのびねばならないのか?
 美人薄命か!「美人薄命」……とんでもなく場違いで、陳腐な表現だ。こんな自分が作家志望だって……笑わせる。ぼくもまた死んでしまえば楽だと思った。

 オーナー夫妻から山のように不在通知が来ている。ぼくは携帯の電源を切った。そうして、パンツ一枚になって、めちゃくちゃに泳ぎ回ってやった。海水は思ったより冷たい。足の先が魚とぶつかる。沖へ、沖へ、泳いでいく。バカな格好をした陸が、日常どもが、遠く離れていく。バカどもが!ぼくは波間に浮かびながら叫んでやった。

 泳ぎ疲れて、砂浜で寝そべる。この空!生きねばならないのだろう。きっと、生きねばならないのだろう。


 ぼくは砂を払うと、パンツ一枚のまま、車のエンジンをかけた。














あとがき。

 三時間、5000字、いろいろ考えてから書くべきなのだろうが、思いつくままに書いてしまった。一ヶ月くらい何も小説を書いていなかったので、「書きたいことを書くのがいちばんだよ」というアニマ的な女を作り上げて自分を励まそうという意図があった。それが冒頭のセリフである。そこからだらだら書いた。アイデアもプロットもなかった。別にカナコを死なせる必要もなかったが、息が切れてきたので死なせてしまった。作品を書くとはマラソンに近い、もっと根気と、執拗な努力が必要だ。結果として、クオリティの低い作品ができてしまったが、書いているときは確かに楽しかった。最後の、投げやりな感じも好きだ。別にこれが最期の作品となるわけではない。これはダメな作品だが、ダメな作品だろうと「書き続ける」ことが、アマチュア作家の使命である。これを布石にして、自分の世界を広げていきたいと思う。

0 件のコメント:

コメントを投稿