9.14.2014

人生が旅であること

頽廃的な日々を送っている。

ぼくの人生は恐らく旅のようなものになるだろう。昔から旅が好きだった。ぼくは両親が目を離すとどこかへ消えているような子どもだったという。そして幾ばくかして、ひょこっと現れる。あそこを奥に行くとキレイな沢があったよ、とどうでもいい情報を手にして。

今でも旅は好きだ。インド、マレーシア、タイ、オーストラリア、韓国……。旅は必ずひとりで行くことにしている。友人といくと、旅情が濁るのだ。結局のところ旅とは一人になるために行くものであり、「自分探しの旅」などと言うように腰を据えて自分と向き合うためのものなのだ。

旅とは必ずしも快楽に満ちているわけではない。おそらく快適に過ごすのであれば日本以上の場所はないと思う。飯はうまいし、清潔な環境で、世界一の接客。だから海外旅行をする若者は減っているのだ。しかし、旅の目的はむしろ刺激を受けるためである、と言えば否定する者はないだろう。

人間だけが退屈を許されていない。乳牛であれば、数畳の世界で事足りるのである。毎日飼料を食べ、糞を片付けられて、ただ繋げられていても数十年を生きる。人間は何かをしなくては生きていけない生き物である。登山家も世界一大きなパイも同じだ。ひとはなぜ山を登るのか?これは理性的なものではない。上っ面だけの功名心だとか、狂気が彼を支配しているのではない。おそらく人間には、何かの目標がなければだめなのだ。おそらく目標だけが、人間を退屈から引き離す。

「海外なんていって何になるんだ。金を払って嫌な思いをするだけじゃないか」と言う人間は、たぶん人間というよりは牛に近いのだろう。食べてすぐ寝ると牛になるよ、と言うが、人間も牛になれるのだ。もっとエゲつない言葉を使えば彼は家畜だ。彼は人生に満足しているのだ。おいしいご飯も食べられるし……。ネットでオナニーできるし……というわけだ。おそらくこうした人生は間違っている。少なくとも、ぼくの肌には合わない。

人生が旅であるということ。ぼくの人生は循環を描くのではなく、直線であるということ。

循環的な人生とは、再生産的な人生である、両親が自分を産んで、自分も子どもを産む。親が政治家だから、自分も政治家の道を歩む。親が高学歴だから、自分も受験をがんばる。そうして財を引き継ぎ、それをさらに子どもに受け継いでゆく。こうした人生はまともで、幸福だ。大部分の大衆の目標となる人生でもある。

直線的な人生とは、おそらくそこまで生産的なものではない。最先端の技術を身につける、だれもやったことのない分野で活躍する、何か創造的な行為をもってして、人類全般の「進歩」に貢献する。当たれば生産的だが、大部分は何もできずに終わってゆく。

ぼくはたぶん後者だろう。なぜかはわからない。ぼくは変テコな人生を歩んでいる。親は無教養だし、高校はほとんど最底辺だったが、独学でそれなりの東京の大学に進んだ。そして次には田舎へ飛ぶのだ。

音楽でいえば、J-POPを聴くかクラシックやジャズを聴くかというところだろう。ぼくがJ-POPを聴くと退屈なように、クラシックを聴くと退屈な人間もいるのである。クラシックは世界の中に音楽を得ることができるのではない。音楽の中の世界に没入することを要求するのである。これはひとつの冒険である。

ぼくの人生は旅である。しかし旅でない人生があるだろうか?旅のように過酷でなく、刺激もないとすれば、それは恐らく偽物の人生だ。人間は生身で、自分の身体ひとつで生きていかなければならない。神経を尖らせて、鋭い目つきで前に進んでいかなくてはならない。

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