9.15.2014

人生の意味を考えている

しょうもない一日だ。特に何をしたいという欲求もなく生きている。前に「家畜はつながれて飯を食べていくだけで満足できる」と書いたが、今日の無気力で怠惰な一日は家畜とまったく変わるところなし。ぼくもただ生を漫然と空費しているだけの存在に過ぎない。

田舎暮らしをシミュレートしてみたところ、案外悪くない。生活には余裕があるし、車さえあれば不便ではない。残業はほとんどなく通勤時間は十分。ぼくの嫌いな人混みも満員電車もない。ただ近所づきあいを経験したことがないのでその点だけは問題になりそうだ。引っ越しの挨拶はきちんとしたいが、町内会だけはやんわり断りたい。自由に暮らせなければ意味がない。独身の単身者なら、断ったところでそこまで問題になることはないだろう。

仕事が終われば毎日海に出たり、読書をして過ごすのだ。楽器の練習をしたり、バイクの整備をしたりね。田舎だから金は溜まる。しかし、そこからは?

ぼくは田舎に定住するつもりはない。どこにだって定住するつもりはないのだ。就活をしているときにこう言われてぞっとしたことを覚えている。「これから40年以上はたらく会社ですから、慎重に会社選びをしましょう」。そう、40年。40年もの間ひとつの会社ではたらくのが「普通」なのだ。40年会社員として働いて、何になるだろうか。その人生は自分のものだっただろうか。死ぬときに「もっと働けば良かった」と思う人はいない。

田舎で金を貯めてぼくは何がしたいのだろう。かつてぼくは年収2000万円を目標としてライフプランを立てていたが、それはぼくが豪奢な生活に憧れていたわけではなく、早期に金銭から解放されるためだった。解放されて、さて、その次は?ぼくは何がしたいのか。ぼくは自由に向かいたいのではない。自由になって、それからしたいことがあるはずだ。それがなければ全て空虚だ。



人生の意味を考えている。精神病や神経症の病因は「意味の不在」から来るものだという説がある。人生に意味なんてない、という恐怖が神経症者を襲う。この虚無感は「死に至る病」である。だから、それに対する防衛反応として神経症が発症する。

しかし、どうだろう。人生に本当に意味なんてあるのだろうか。例えば家族への愛情だとか、社会への貢献をすること、この行為に意味があるのだろうか。ぼくらはただ生まれ死んでいく。その間に何かしらの意味を見つけることは可能なのだろうか。考え始めるとぼくらは虚空に浮かんでいるシャボン玉のようにあっけない自己の存在に気づくだろう。何者も絶対ではないのだ。

ある部族は毎朝きまって儀式を行うという。その儀式は太陽神に捧げるもので、彼らが儀式を辞めると太陽はエネルギーを失い、動くことを止め、世界は滅びるのだという。もちろんこのこと自体はまったく空想的で荒唐無稽だ。しかし、その部族は幸福ではないだろうか。太陽を動かし、世界秩序を維持するというこの上ない使命を持った彼らが、人生の意味の喪失に悩むことはない。

日本では熱心な宗教家もまれだ。ぼくらはすでに地球が太陽の周りを回っていることを知っている。ぼくらが生きようが死のうが、数億年は地球が自転を続けることを知っている。ぼくらは自分たちに崇高な使命も何もないことを知っている。ぼくらがしなければならないことはチンケな仕事をして日銭を稼ぎ、税金を払い、飯を食い、女を抱くことだ。

それらのどこに意味なんてあるだろうか。先に述べた部族の顔は精悍で真剣であり、崇高な使命感を持った人間だけが持つ情熱に燃えた目をしていたという。いったいこの国のだれがそんな顔をできるだろう?

神経症者はおそらく、人生に意味なんてないという仮借ない事実を知ってしまっている。問題はそこからだ。意味のない世界に屈服するのか、そこから立ち上がっていくのか。地獄の絶望に沈みながら、それでもにっこり笑えるかなのだ。人間の気高さや偉大さはそうしたところから生まれるのだろう。

……

前に人生に執着することを辞めた、と書いた。しかし暇ができると考えてしまうものだ。「偉大な人はいかに生きるかを常に考えている」とセネカは言ったが、ぼくはそれが優れているとは思わない。考えて、その次には行為をせねばならない。行為を。

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