9.16.2014

感動屋の生禅

稲妻に悟らぬ人の貴さよ   芭蕉

ぼくと同じように鋭敏な神経の持ち主はゴマンといるだろう。そして、そういう人間が文筆家を目指す可能性は高い。理由は単純で、ひとりでできるから。

内向的人間は芸術が好きだ。芸術を知る感性もあるし、芸術はひとりでやるものだ。おまけに芸術は普通、ひとつの世界として完結している。秩序立った世界を構築することはニューロティックな人間にとって魅力的である。箱庭療法みたいなものだ。

スーザン・ケインは弁護士を辞めて執筆業を始めたが、その取材中、著名な心理学者にこう言われたそうだ。「君みたいな人は、自己完結的な仕事をやりたがるんだよ」

芸術家にしろ、精神病者にしろ、彼らが強い「エゴ」を持っているとはアンソニー・ストーの言った通りである。問題はそのエゴをどうするかだ。エゴに潰されるのか、エゴを秩序立ったものに昇華していくのか。

一体ぼくだけに優れたものがあるだろうか?ぼくが他のニューロティックと違う点はあるのだろうか。きっとあるはずだ。人間はみな、天命というものを持って生まれたとぼくは信じている。問題はそれに気づくか気づかないかなのだ。それに気づく人間は苦難にあっても幸福だし、気づかない人間は満足していても不幸である

天命はどうやって知ることができるのか?それはたぶん、額面の年収でもリクナビでも2ちゃんのまとめサイトでもなく、ただ自分の精神の内奥にあるはずだ。人は耐えずこれを知ろうと求めなければならない。

天命を知るとは、自分本来の生き方に立ち返ることである。自然に生きている人は、正しい行為しかしない。彼は行為の中に没我し、行為の全てが自発的、能動的であり、例え人の役に立つ行いをしても見返りなど求めはしない。

これは「愛」と言うこともできる。愛は常に能動的であり、代価を要求しないものだからだ。そうでなければただの偏執である。ひとを愛するためには、まず自分を知らねばならないということだ。

いきなり愛とか語っちゃって自分でも気持ち悪いから辞めよう。ともかく、人間はいちど孤独になるべきなのだ。静かに自分の精神に耳を傾けるということ。大衆の喧噪で自分の心を散り散りに切り裂いてはならない。

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