9.17.2014

二十五歳

ヘッセの「シッダールタ」を読んだ。シッダールタとは釈迦のことであり、ようはお釈迦様の伝記である。

なるほど時間なんて形象でしかないのかもしれない。過去の自分も未来の自分も同じであるということ。ぼくらは死を怖れてはいけない。なぜなら、ぼくらの生はすでに死を内包しているし、時間が形象に過ぎないのであれば、生きているということは死んでいるということでもある。永遠の命があるとすれば、それは宇宙の理に反することだろう。

今日アクセスカウンターを見てみたら過去にないくらいアクセスが悪かった。こんなものか。文筆家になる、と言っておいて文章でひとを集められないのだから悲しいことだ。おまけに昨日、久しぶりに人とセッションしたらあまりにひどい出来だった。しかし音楽はいいのである。ぼくは音楽で食おうとは思っていない。音楽は孤独と相性が悪いという気がしている。あれもコミュニケーション能力が要求されるものだ。

文章においては、孤独も良い味付けになる。どうせ孤独なら、とことんまで孤独な方がいい。ブログで中途半端にアクセスを稼いでもしかたない。とまあ、アクセス数を気にするなんて俗物的で小市民的なのだけど。

いや、確かにぼくは俗物だ。しかし聖人の真理にも憧れるものだ。しかし実際には、俗物になりきることもできず聖人になろうという決意もできず、宙ぶらりんの人間だ。どうもぼくには勇気が足りない。なぜだろう。しかし、自分を無理にでも変えようという熱く燃えた若い時代は過ぎ去ってしまったように思う。昔はナンパに挑戦したり、リア充集団の集まりに参加したりしたけど。ぼくの青春は終わってしまっただろうか。妙に自分は自分なのだから、仕方ないというような落ち着きがぼくを沈めている。

退廃である。死である。しかし、なんだろうこの絶対的な肯定感は。ぼくの四半世紀は自分を否定することに費やされたが、これからは自分を肯定して生きていけるということだろうか。自己肯定とは、同時に恐ろしいことである。世間的には負け組の領域に落ちていくことだ。なぜなら、このままではいけないという感情だけが人を高みに連れて行くからだ。苦痛を盛んに受け入れ、重い荷物を背負うようなラクダの時代があって初めて人は獅子になれるのだ。

シッダールタでは修業の道中、川渡しに出会い、その弟子になる。川渡しは仏陀のような賢者の教えを乞おうとは思わない。ただ川の音に、声に耳を傾けるだけである。彼はそれによって、それだけによって真理に到達した。彼は川渡しであることを恥じなかった。彼は真理を得るために必要なことを知っていた。

ぼくはどうなるだろうか。ぼくは正しく生きているだろうか。自分が正しいという感覚、これはすべて誤っているのではないか。ぼくは確かに平静としている。落ち着いている。しかし、そんなことでぼくは正しく生きていけるのか。生の正しい態度とは「怒り」ではなかったか。ぼくの青春はすでに死んだのだろうか。ひとは二十五歳くらいになると変わる。
どんな人でも、その若き日には、全体的な精神的態度において、新鮮さと興奮性とを多く保っており――二十五歳頃から、徐々に、あるいは急激に消え去ってしまう。その後にくるものは、機械的な職務の処理と、睡眠と、食事とであって、個性と呼ぶべきものはほんのわずかしか残らない。(「天才の心理学」/クレッチマー)

ぼくは一個の社会人として落ち着くのだろうか。あれだけ騒いでいて、ねえ。

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