9.18.2014

そうだ、内定辞退しよう

喜びと悲しみの循環を繰り返すような日々だが、時間とともに確実に何かが失われているのを感じる。おそらく人生とは螺旋を下るようなものなんだろう。

ただ孤独にでも書き続けることだ。ぼくは田舎への就職をほぼ決定したと書いたがそれはもう辞退しようと思っている。というのも条件が話と違うからだ。思っていたより激務だったのである。経営者としては「不景気だからしかたない」「人手が足りないから仕方ない」のだろうが、嘘はついたらいけないでしょ。その点を話あって、納得いく説明がなければ辞退、だ。また就職活動を開始するのはめんどくさいが余暇の時間だけは譲れない。ぼくは金と暇のために田舎へ行くのであって、バリバリ働くためではない。

未だに就職が決まっていないというのは少し焦燥を感じることでもある。周りを見ると、大手企業に決まって意気揚々と社会人としてのスタートを準備したり、学生生活の残りを楽しんでいる。こうなったら、最悪フリーターでも良いという気がしている。これまでの学生生活を振り返ると、大して金がなくても生きていけるのである。

それで、金よりももっと重要なことはあるはずだ。その「何か」を突きつめれば結局金はついてくるし、金への執着ももっとなくなるだろう。iwatam氏は現代は金よりも知識の時代だとしたが、当たっていると思う。コリン・ウィルソンは昼は図書館に籠もり、夜は野宿というスタイルでベストセラー「アウトサイダー」を書いた。その方が、サラリーマンよりずっといい。甘い考えと一蹴されるだろうが。

就職活動を振り返ってみて思うことはぼくはどうしても集団に馴染めず、定着できない人間であるということだ。エゴが強すぎるのかもしれない。こうした人間にとって就職は難しい。どんな会社でも、決してひとりで成り立つものではないから。そして、簡単に離れていくような自由人は不都合だ。ぼくのような人が向いているのはたぶんSEのような、職人的な技術をもって抽象世界に没我するような職業だろう。

最近一日中自習室に籠もって勉強しているのだが、そのようなときにぼくは世界が調和的であると感じる。生活があるべきところに落ち着いていると感じる。ぼくのような人はきっと多いだろう。なかには友達と楽しく快活にしゃべっているときに調和を感じる人がいるし、あるいは自分の部下が黙々と働いている姿に調和を覚える人もいる。おそらくその充足感は、自分の性質、生まれ持った性質と環境が一致していることによって起こる。

人それぞれ違った性質を持っている。ユング心理学を元にした「MBTI」という心理テストでは人を十六種類に分けている(これはよく当たるので米国の採用試験にも使われている)。たぶん、内向的な人間が弁護士になるのは向いていないし、外向的な人間が工芸職人になることも向いていないだろう。判断的な人は科学者に向いているし、直感的な人は芸術家に向いている。だから、人それぞれ違った目標があっていいし、その方が社会はうまくいくのだ。

どんな川も最終的には海に辿り着くものだ。ぼくらは無理に川をせき止めたり、迂回させようとするが、それは逆に遠回りだ。ただ自分を自由にさせてやること。自分の本当にしたいことを見つけ出すこと。それが幸福だろう。

さぐりを求めると・・・その人の目がさぐり求めるものだけを見る、ということになりやすい。また、その人は常にさぐり求めたものだけを考え、一つの目標を持ち、目標に取りつかれているので、何ものをも見いだすことができず、何ものをも心の中に受け入れることができない、ということになりやすい。さぐり求めるとは、目標を持つことである。これに反し、見いだすとは、自由であること、心を開いていること、目標を持たぬことである。(「シッダールタ」/ヘッセ)

「人間には、何かの目標がなければだめなのだ。おそらく目標だけが、人間を退屈から引き離す。 」とぼくは前書いたのだけど、ヘッセは真逆のことを書いている。ダメダメだな、ぼくは。

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