9.23.2014

自由について考える。

今日も中二病日記を書く。

現代ではもはや絶対的価値観はなくなってしまった。昔であれば、村単位の共同体が全てであったし、あるいは宗教がこの世の「理」を描いていた。

村社会は牧歌的な社会である。「いかに生きるか?」と悩むことは現代人より少ないだろう。共同体のために献身してはたらけばだれかが守ってくれるし、共同体はアイデンティティを与えてくれる。村の一員として、誇りをもって生を全うすることができる。

ある部族の話をすると……彼らは太陽神を信仰しているが、毎朝儀式を行う。彼らは儀式を行うことで、自分たちがエネルギーを与え太陽を動かしていると信じている。彼らが儀式を辞めたとき太陽は昇らなくなり、闇の時代が訪れ、世界は滅びると……。

ところが、現代は「個人」の時代であり、神もとうに死んだ。「世界を守るための儀式」のような絶対的な価値基準が喪失してしまった世の中では、おのおの個人が自分にとっての「正しいこと」を模索していかなければならない。

おそらく自由であるということは、過酷で峻厳なことである。というのも、人は自由になった瞬間、何をしてよいかわからず当惑し、信ずるべきもののないことに恐怖してしまうからだ。

自由とは、絶対的な価値観を拒絶したところ、または絶対的な価値観とされているものの矛盾を暴き、それを超越したところにある。であるから、当然それはすがるべきもの、人生に意味を与えてくれたところの価値観と決別することである。

現代人の多くが、「意味」を喪失してしまっている。なぜ生きているのか……。考えてもわからず、大抵の人は考えることを辞める。しかし、たまに変に凝り性な人間がいて、彼らは精神を病んでいくというわけだ(夏目漱石もそうして神経を病んだという)。「不誠実か、発狂か」という言葉がある。これは真実に生きぬことは不誠実であり、しかし真実を求めようとすれば、道を踏みはずし発狂することが常という意味だ。

現代にあって、人はだれしもが自由になることが可能である。にも関わらず、会社、親、恋愛、学歴、年収、権力、新興宗教、マスメディア、あるいは2ちゃんねるの偏差値表などの既成の価値観に自己を帰属したがる。帰属というよりは、隷従と言った方がいいかもしれない。価値観は勝手に与えられる。それに従えばとりあえずの幸福が約束される。その方が「ただ生きる」だけならはるかに楽ではあるので、大部分の人間がこうした権威にすがって、特に疑問もなく生きている。

年収200万円であるよりは年収1000万円である方がよく、後者であるから自分は「幸せ」であり「正しい」と感じる。しかし当然ながら年収200万円の者の方が正しく幸せであるということも多々ある。問題は、そうした可能性を度外視し、思考停止してしまうことにある。前者は自分を失敗者で不幸だと感じ、後者は自分を幸福と感じる。これが絶対的価値観にすがるということの意味だ。両者とも目を開ききっていないのである。生きるとはそう単純なことではないだろう。

個人として生きる人間は、最終的には、自分を知らなければならない。他者や集団の価値観から自由になった個人にとって、ただ信ずるべきもの、正しいものは自己にしかないからだ。デカルトの「我考える、ゆえに我あり」を引用してもいいだろう。あらゆる社会規範や、既存の思想は「不自由」のもとである。だから、自由な人間はただ自己をのみ追求する。多くの哲学者や芸術家が「エゴイスティック」であったのは彼らもまた自己の重要さを知っていたからである。

おそらく自己をどれだけ掘り下げてみたところで尽きるものではなく、答えなんてないのだろう。そんなことが可能であれば、たぶん仏陀のように「解脱」し、後光が差していることだろう。だが、解脱なんてほとんど全ての人間には不可能だ。たぶん人間に可能な最良、最善の人生とは、模索し、悩み続ける人生である。

過去はどこまでも追ってくる。死の間際には、だれしもが「自分の人生は間違っていた」と悟って死ぬのだろう。それが人間の原罪である。生まれ落ち、死にゆかねばならない人間の罪である。人間の本質とはこうした葛藤にある。人間の本質は悩むことである。だから、悩むことを辞めてはならない。獅子が駆けることを、鳥が飛ぶことをやめてはならないのと同じように。悩んでいる限り、正しいのである。例え全てが間違っているように思えても、悩む以上ひととして正しいのだ。

たぶんね。

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