9.28.2014

自己実現について

自分のことを深く知るにつれて、自分の意識や理性の小ささを知る。ひとは本当に自由意志を持っているのだろうか?という疑いが離れない。ぼくらは与えられた環境と、生まれもった遺伝子との間の相互作用でしかないのではないか……と。ぼくはぼくであるし、ぼくはぼくの皮膚感覚をもっていて、ぼくはぼくの四肢を動かすこともできる、思考することも可能だ。ぼくらは環境と本能との間に、理性があると信じている。でもそれが正しいのだろうか。それが自由意志を示すのだろうか。理性とは幻ではないのか。ほんとうに理性が介在するとしても、それがあることがはたして「良い」のだろうか。

脳は情報削減装置だ、と言った心理学者がいた。われわれは本当であれば、宇宙の真理を知ることができる。ただ脳が情報を取捨選択するおかげで……われわれはナイフとフォークを使って、目の前のステーキを口に運ぶことに終始するというわけだ。そうでなければ、われわれは生活することを辞めてしまい、すぐに死んでしまうから。

脳を介して見たときに、マロニエの根はマロニエの根だが、理性を介在させなければ、マロニエの根は「存在そのもの」になるのだろう。母親の死を前にして、「悲しむべきところだから悲しもう」と思うこともまた理性的なふるまいである。しかし理性を介在しなければ、母親の死とは必然であるし、特別悲しむべきことでもないと思うことが正しいのかもしれない。

ぼくらは環境と本能に従っている以上、常に正しい。異邦人であるムルソーが「ぼくはつねに正しかったし、今も正しい。」と言ったのもその意味で正しいのだ。といって、本能とは矮小なものではない。腹が減ったら飯を食べる。これはまだいいが、目の前に女がいるから犯す、というのも本能的な振るまいではない。人間の本能というのはそういう風にできてはいない。

マズローの欲求段階説は有名だが、これは低次の欲求を超越して完成した人間になる……というモデルなのではない。ぼくらは安全を確保し……食欲を満足させ……性欲を満足させて、それを土台にしてやっと人間らしい振るまいができる……というわけではない。

ぼくらの自己実現とは、実は本能的な欲求なのだ。ぼくらが自己実現の欲求を持っていること、これは動物と人間を切り離すものではない。むしろ理性を捨てて本能や無意識に立ち返ること、これが自己実現の近道なのである。なにしろ、マズロー自身、自己実現や自己超越は人間の「本能」であるとはっきり言った。

だから、むしろ人は理性的であるときに、自己実現を求めなくなるということがありうる。頭の固い教師や企業の重役はこのドツボに陥っている。自己実現とは崇高な欲求である、だれしもが求めるべきものである。ところでこの欲求は必ずしも形式的な教育を要するものではないと思う。むしろそうした教育が自己実現を阻害するということもたぶんにありうる。なぜなら自己実現の欲求は本能であり、本能とは生まれつき備わっているものだからだ。例えば教養の身についたエリートサラリーマンよりも、底辺ではたらくの農夫の方が自己実現しているということも十分ありうるのだ。

だから、ぼくらは知識をどんどん背負っていくけれども、時にはそれを全て取り払って、自由に伸びをすることも必要なのだと思う。そうして、真に本能に自由にさせてやること、環境と本能に手放しになることが必要なのだ。

なにもドビュッシーやモーツァルトを聴きまくることが教養を意味するのではない。AKBだろうと、GLAYだろうと聴くのだ。それが本当の人間だ。生まれたときから過ちひとつ犯さず、聖人君子のような、イデア的な人間などいない。「放蕩者の生活が聖者の生活へのいちばん近い道のひとつでありうる」のである。

何が言いたいかっていうと、とにかく自分を自由にしてやることが重要なのだ。自由にするということは、金をがっぽり稼いだり、女をレイプすることを意味するのではない。本当に自己の欲求に従ったとき、人は初めて自分の求めていることができるのである。

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