9.03.2014

目標について

昨日はチューハイを二杯飲んだだけで酔っ払ってしまって、興奮していた。コリン・ウィルソンは「アルコール中毒者は酒によって至高体験を得ようとしている」と言ったが、その通りだと思う。

ぼくは酔っ払った結果、デュシャンもクソだし、ゲーテもドフトエフスキーもクソなので、ぼくの意志ひとつで彼らを超越できると宣言した(そして恥ずかしいので消した)。

あの感覚は、すごい。つまり才能も実績も、権力も金もない人間が、ただひとりで、天才に打ち勝とうというのだから。どこからそんなバカげた自信が沸いてくるんだ……?

当然、ゲーテに勝つということは、一般的な社会人たち、時の流れに逆らえず忘却されていく社会人たち全てに勝つということである。そうして筒井康隆や、ヘッセのような、ゲーテ以下とされる作家たちにもぼくは勝つのである。

何言ってるんだこいつは……と自分でも思うが、単なる酔っ払いの戯れ言と切り捨てるのもぼくは惜しい気がする。

あの自信に満ちた気分は、たぶん、世の天才が平常持っている感覚なのではないかと思う。だって、ゲーテはクソだから俺がゲーテ以上のものを作ってやるという人がいなければ文明は進歩しないでしょう。残念なことにゲーテはいまだ超越されておらず、なのだが。

葉隠には「武勇と小人は、我は日本一と大高慢にてなければならず。」とある。たしかに、「俺は日本一だ」という気概なくして大業はならないだろう。

まあ、でもね。「俺はビッグになるぜ!」と言ってる泥酔した大学生や「あのクソ上司ぶん殴ってやる!」と息巻く会社員と何が違うのか?といえば微妙だ。

でも、どうだろ。和民みたいな安居酒屋で、近くの奴が「営業部署でNo.1になるぞ!」とか言っててもあーはいはいがんばってね、という感じだが、「俺はゲイツを超す」なんて真顔で言ってる奴がいたらちょっとビビる。そういうことだろうな。何か根本的に狂気じみてる。しかし、少し魅力的じゃないか。どんな奴だろうかと興味が沸く。どうやってゲイツを超越するのだろう、と惹きつけられる。

そういう人間の方が、ぼくは好きだなあ。バカみたいにでかい目標を持ってる奴。明日のパンを気にするようじゃダメだ。明日のパンとは、マイホームだとか、昇進のことだよ!それじゃダメなんだ。……とぼくは僭越ながら思う。

目標。

彼は別人になって聖堂を出た。まったく一変した世界を通って彼の歩みは彼をつれだした。木彫の甘い神聖な像の前に立ったあの瞬間から、ゴルトムントは、今までついぞ持たなかったものを、他人の場合あれほどしばしば嘲笑するか、うらやむかしたものを、すなわち目標を持つようになった!彼は目標を持った。たぶんそれに到達するだろう。そして彼の支離滅裂な生活全体が高い意味と価値とを獲得するだろう。この新しい気持ちが喜びと恐れとをもって彼をみたし、彼の歩みを速めた。彼の歩いている美しい朗らかな国道は、昨日と同じものではなかった。(「知と愛」/ヘッセ)
目標に至る精神の軌跡を自然の山に譬えることは、ごく自然な試みかもしれない。しかしほとんどの人は、この渓谷に住んでいる人たちのように、その山を目前にしながらみずからは決して足を踏み入れようとしない。ただ、かつて底を歩いた人たちの話に満足げに耳を傾けている。彼らはこうして身にかかる苦難を避けているのだ。なかには熟達したガイドに伴われて山に入り、目的地に到達する人もいる。また何の経験もないのに闇雲に自分の道を切り開こうとする者もいる。だがこうした人のほとんどは目的地を前に挫折してしまう。しかし希には、純然たる意志と、運と、神の恩寵によってその目的を成就する者がいる。いったん頂を極めれば、そこに至る道は限りなく見えてくる。(「禅とオートバイ修理技術」/ロバート・パーシグ)
多くの大偉人は一切の邪魔者を退け、財産や公職も快楽も捨てたうえ、ただ、いかに生きるかを知ろうとする、このことのみを人生の最後まで唯一の目標とし続けた。(「人生について」/セネカ)
近代人は自分の欲することを知っているというまぼろしのもとに生きているが、実際には欲すると予想されるもの をを欲しているにすぎない。自分自身に対して自らの目標を与える危険と責任は、深く恐れてとろうとしない。(「自由からの逃走」/E.フロム)

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