9.05.2014

地に足がついた二十五歳

浮ついた感情がどこかへ消えてしまったようだ。

自分が何か特別な人間であると思いたかっただけなのかもしれない。試しにぼくの周りに聞いてみようか。ぼくは特別な人間だと思う?ぼくは天才だと思う?ぼくは将来、有名な人物になると思う?

いずれもNoだ。ぼくはただちょっと変わってるだけの人……少しコミュ障な人、というだけだ。

一時はニーチェやヘッセに自分を重ねて喜んだが……。少しばかりそういう「性質」を持った人はざらにいるのだ。少しばかり絵を描くのが好きだからとマチス級の天才になれるとはだれも思わない。哲学が好きだからとカント級の天才になれるとは思わない。ニーチェが生きていた時代にも、ニーチェと同じように哲学を愛する人間がたぶん五万といたし、そうした人間は特に有名にもならず、功績もあげず死んでいったのだ。

思想や芸術で大成する、などと、そういう幼児的な夢は、もうだれも持っちゃいないのだ。ぼくの友人はたしかにサッカーが好きだが……彼がサッカー選手になるなどと言い出したらぼくは一生懸命止めるだろう。それが彼のためだからだ。その代わりにこう言うだろう。サッカーチームのコーチとか、スポーツ用品会社に就職しなよと。

だれだって、好き勝手生きられるわけではない。

ところで……ぼくは自分が死ぬことを知っている。いつか死ぬ、それはいつのことかわからず、また必ず自分に訪れることだ。これを考えると、社会的規範がバカらしくなってくる。社会は生き続ける。構成員がひとり死んだところで相変わらず社会は存続するからだ。しかし、ぼくら個人が死んだら?さて、どうなるかはわからないが、少なくとも社会からはいなくなる。だから社会に限られた生を捧げることにもリスクがある。自分のために人生のリソースを使えなかった、と嘆く人もいるのだ。

ひとは死を見つめはじめたとき、反社会的存在となる。社会が相対的に小さくなり、自己目的的になる。自己のなかに社会が包括される。社会に属する個人から、個人に社会が属するようになる。

たぶん、その方が知性的な振るまいなのだろう。社会的活動は動物でもできる。言語能力についても人間固有のものではない。ただ前途の死を見つめることができること、これが人間だけにできる行いである。

だからハイデガー的な意味で、ぼくらは死を見つめることが大事なのだろう。そうして始めて生を考えることができる。

ぼくは、どういう人生を歩めばよいのだろう。そればかり考えている。何か正しい道があるはずだ。ぼくは、富や権力はもはやいらないと思っている。かっこつけているわけではないが、満足に飯を食べているときにカツ丼を勧められても食べたくないし、そういうときにがつがつとカツ丼を食べている人を見ると多少の吐き気を感じる。ぼくは飢えているわけではない。だから欲求段階説的に言えば、より高次の欲求を満たすべきなのだ。しかし、ここからが難しい。

でも、たぶん単純なことなのだ。マズローの欲求段階説で重要なことは、最高次元の自己実現、あるいは自己超越の欲求ですら「理性的」なものでないということだ。そうではなく、人間はすべて本能的に自己実現をしていく。飯を食べるのと同じように、人間は自己実現の本能を持っているのだ。だから、ぼくらはどう生きようというときに、直観と本能に頼るべきである。つまり、哲学者風に理性的であるよりは、落ち着いた環境で黙想し……禅的に閃きを得るということがより本来的なのだろう。

ユング曰く、「無意識は自分の存在を知られたがっている」と。ぼくらは内面世界の声に耳を貸さなければならない。社会的規範の前に、だ。ぼくは別に有名になったり、成功する必要すらいらないのではないか?ただ「善く生きる」こと、これだけなのかもしれないな。

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