9.11.2014

スキゾイド・アンドロイド

友人たちに恐らく田舎に就職することになると思う旨を伝えるとひどく驚いていた。確かにお前は普通のところに就職しないと思っていたが、なぜそんな辺鄙なところに、というわけだ。

ぼくはそもそも田舎の出である。そして東京には七年暮らしたことになるが、それでも東京の魅力はわからなかった。一時期新宿に通っていたときもあったが、目的地に行き、用事を済ませ、そしてただ帰るだけだった。ぼくには下北沢だとか渋谷や秋葉原といった街は魅力ではなかった。ぼくは下北沢のおしゃれな兄さんとも馴染めなかったし、秋葉原のオタクたちとも馴染めなかった。ぼくは常に異邦人だった。

住宅街の中の狭すぎるアパートにも馴染めなかった。周囲の目、主婦と老人の話し声がぼくを苛立たせた。ぼくの居場所と言えば、大学の自習室、あるいは図書館、部室くらいだった。静謐であり、孤独が固守されるような場所、そこでぼくははじめて息をつくことができる。

かといって、田舎の生活にぼくは馴染んでいたわけではない。田舎の「付き合い」というのも不気味に見える。が、自然はぼくにとって美しいものだった。ぼくは実家からバイクで三十分のところの、人がほとんどこない高台につくられたベンチに座って読書をすることが好きだった。

同郷の友人と一度だけ会ったことがある。彼は千葉に暮らしており、東京の造船会社で働いているというが、東京の生活は嫌だから地元の市役所に転職したいのだという。「やっぱり地元がいちばんだよ。東京にもすぐ行けるし、恋しいよ」と少し痩せた彼は言った。

田舎か、東京か?東京の魅力とはなんなのだろうか。確かに求心力はある。何かイベント事があれば東京だ。しかし、テレビを付けなければ、ネットのくだらないサイトを見なければ、ただ書籍と、音楽の芸術に触れていれば……東京なんてどうでもいいものだ。全てが虚飾だ。自然とはあくまでも「自然」であり、その点で美しい。だからぼくは人間から離れるために田舎暮らしをしようとしている、といっていいかもしれない。

田舎のひとびとを軽蔑して都会に出てきたが、そこにあるのは失望だけだった。もはやどこにとってもぼくは異邦人であり、ただ自然にすがるしかないのだ。


最近の趣味はクラシック音楽を聴くことである。ストラヴィンスキーの「春の祭典」を聴いていたら涙が出た。ぼくは最近三度泣いた。一度は本を読んで。次は美術館でセザンヌを見て。今回が三度目。すべて孤独のうちの出来事だった。

こんな人間もいるものだ。人を怖れ、拒絶し、ただ自然と芸術の美しさに救いを求める。ぼくの人生の本体は孤独のなかにあり、それに外れるものすべては仮象であるということ。

ところで哀しみにもぼくは慣れてしまったように思う。というのは自分の偏執狂的な部分を除くことができたからだ。虐められたのび太はジャイアンに執着する。だから不幸なのだ。恋人に振られた男は彼女に固執する。だから不幸なのだ。哀しみは自己のなかにしか存在しない。怖れですらそうだ。だから、対象に何かを求めずに……。ただ心の内に耳を澄ますことだ。

哀しみは偏執を生む。ぼくは今、かなりの部分で解放されていると思う。もはやだれの嘲笑も、嫌悪も、ぼくを動かすことはできないだろう。ところで、ぼくはただ人生に偏執することを辞めたのだ。ぼくはそれでだいぶ自由になったよ。

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