9.27.2014

ぼくが地方の小企業に行くまでの話

孤独に関する本を読みふけっている。

世間的な、大企業へ行くような、快活なヤッピー的な人種とぼくはどこが違っていたのだろうか。

学生生活を振り返ると、確かにぼくの周りは金持ちが多かった。医者の息子だとか、大企業の役員だとか、そういう家の子息が多かった。ぼくが家賃3万円のアパートでカツカツに生活しているのに対し、誕生日プレゼントで外車を買ってもらった歯医者の娘(しかも乗らない)、生活費とは別に月30万円の小遣いをもらってる医者の息子、23区内なのに門付き庭付きガレージ付きの豪邸に住んでる会社経営者の息子など。

ぼくは地方の旧家の生まれで、父親はあるスポーツ選手だった。両親はかろうじて大卒だったけれど、教養はなかった。車の中で流れる曲はDeep purpleだったし、母は酒を飲みながらカルビーのかっぱえびせんをつまみ、「100円で幸せになれる」と喜んでいた。親戚にかろうじて東北大卒の人がいるくらいで、教養だとか芸術のような文化的生活に無縁な田舎のロー・ソサイエティにぼくは属していた。

高校は底辺だった。かつては校内に監視カメラがついていたという噂だし、不良生徒がバイクで「校舎内を」走り回っていたという有名な逸話もある。学生の大半はDQNか勉強のできないオタクであり、煙草どころかドラッグで捕まる奴がいた。ヤクザみたいな男子生徒がキャバ嬢のような女生徒と反目し、「レイプすんぞ!」「やってみろ!」と怒鳴っている、ような高校だった。

そこからなぜ大学へ行こうとしたかはわからない。学問への憧れがあったわけではない。たぶんぼくは貧乏が嫌だった。「お金は大事だ」ということを、嫌というほど母親にたたき込まれた。そこで、ぼくは授業のほとんどを放棄して、自習に明け暮れた。教師も黙認してくれて、学校に来なくともぎりぎり出席日数を間に合わせてくれた。結果、MARCHの底辺くらいには受かったのだけど、満足できずに浪人。親には予備校になんていかなくていいから、一年好きにさせてくれと言った。結果、今の大学に来た。しかし、ぼくのような境遇の人間はレアケースのようだ。

一年間ほとんど交遊もせず黙々と勉強していたぼくは、大学に入ってすぐに新入生と馴染むことができずに孤立した。孤立した結果、学生生活に耐えられなくなり、一年で留年を経験した。ぼくの学生生活は楽器によって支えられていた。ひたすらに楽器を練習して、部員に認められて、やっと居場所ができた。そうして持ち前の「独学」で試験勉強をなんとか乗りこえてきた。

就活では、何もかもが馴染めなかった。大企業の人事の人間たちは自分とは違う人間のように思えた。それは大学ではほとんど交遊のなかった「ハイソサイエティ」の人種たちの未来像がそこにいた。明るく快活で白んだ面接会場を疑いもせず、調和してそこに存在していた。高級スーツと腕時計、社会の上位にいることに疑いも抱かず、平然としている人間。

結果、ぼくはそういう人びとの共感を得ることはできずに面接に落ちまくった。独学だけは相変わらず得意だったから、SPIの模試では常に上位だった。学内で一位をとったこともある。TOEICの点数も、労せず高得点を取れた。しかし、そんなことはまったく意味をなさなかった。ぼくは面接の場面では浮いた。なぜ自分がスーツを着てこんなところにいるのかわからなかった。面接官もきっと、なぜこんな人間がここにいるのか、と思ったことだろう。

ある求人が気にかかり、縁もゆかりもない地方の企業を受けたときに、大変気に入ってもらえた。面接が終わると車で観光名所の紹介をしてもらえた上に、晩飯を奢ってもらい、宿泊費まで出してもらえた。2,3時間経営者らと話したが、「都会は人間の住むところではない」と言っていた。彼らは夫婦で会社経営しており、それまでは某大手企業で働いていたという。妙な共感と居心地のよさを感じたぼくは、数ヶ月間悩んだが、結果その企業の内定を受諾した。

ぼくは地方から東京に出て、そうしてまた地方に戻る。世間的に見ればそれは没落かもしれない。大学の助教は、「そんなところは人間の行くところではない。」「負け組の行くところだ」とけっこう真剣な眼差しでぼくに言った。

しかし、案外本当の生活というものは田舎にあるものなのかもしれない、とぼくは思う。ぼくは田舎に馴染めず東京に出たが、東京にも馴染めなかった。結局、東京にいようと、田舎にいようとこの寂寞とした感覚はなくならないものだと思う。ハイソサイエティなひとびとは、東京に迷わず馴染める。田舎のDQNたちは、田舎の生活に順応する。ぼくはたまたま田舎に生まれたが、たぶん東京に生まれていようが転落し続けたことだろう。

これからの人生がどうなるかはわからないが、ぼくはけっこう自分の選択に満足している。

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