9.07.2014

A Simple Man

頽廃的な日々を送っている。ということはつまり、ある程度の幸福を持って生きていると言うことだ。

現代的であるということは……幸福であるということだと思う。ひとは現代に到達するまで、あらゆる不幸を排除してきた。科学とは征服である。自然のもたらす災禍を次々と克服してきたわけ。農学とか建築学とか化学も全部征服のためのツールだ。

そんなわけで不幸をしらみつぶしに消していくのが科学だろう。ヒロシマ・ナガサキを思い出せ!科学は悪だ!なんて言っても始まらないよ。倫理学や法学だってあるわけ。人はそういう過ちから学んでいけるもんだ。

しかし、ヴェイユの言ったように人は自然を克服した後には人間に支配されるのであり……。幸福な中産階級にかえって精神病が蔓延したとおり、物質的充足は必ずしも人間の幸福に寄与しないのかもしれない。そういえばナチスのホロコーストを激賛したのは中産階級の下位だったとか?

でも、ねえ。280円で牛丼が食えて……その辺でぶっ倒れても救急車がきて……あったかい布団が1000円……。モノは溢れているよ。一体不幸なんてどこにあるんだろうね?という気にもなるわけだ。もちろん、病人は不幸だよ。でも大体の病人は治ってしまうものだし……。ともあれ、ぼくは健康だ。

それで……ぼくはいま、幸福だ。およそ欲求は満たされている。食欲も、性欲も……名誉欲も、たぶん?ぼくはこの東京の九月七日において満足だ。ぼくはこの溢れんばかりの人間と車とビルを包み込んだ人口過密の都市において満足なわけ。ぼくは行き交う人びとの中の一人であり、その気になればニコニコと口笛を吹きながら往来を歩いてもいいよ。

ね、ぼくは幸福なのだよ。およそ……現代的な意味においては、幸福なのだ。たぶん、ぼくが今日死ぬとなったら見苦しく喚くだろうな。

まあ、どうでもいいさ。ぼくは過去はなく、未来もない。ムルソーみたいな気分だよ。ぼくはただ、生きている。ムルソーは幸福だっただろうか?母親が死んだ次の日にはセックスをして娯楽映画を見て笑っていた彼は幸福だったのだろうか。少なくとも彼は正しかったし、ぼくもその点は同意するが……。「完璧であるためには、存在するだけでよい」とペソアは言った。けっきょく、ぼんやりと……衝動的に(本能的に、動物的に)生きるのがよいのかもしれない。

ねえ?何もお金が欲しいからと言って、強盗する必要はない。起業して成功する必要もない。雇用されて、働けばよいのだ。同様にして、指が傷つけば止血する。お腹が空けばご飯を食べる。これがいちばん優れた人生哲学とは思わないかな?

「指が傷つけば止血する。」なにも喚いたり、救急車を呼ぶ必要はない。止血して、消毒して、絆創膏だ。止血もしないで、衣類を汚す必要もないし、傷を好奇心でほじくり返す必要もないわけだ。

さて、本当の問題は……傷も何もないときだ。傷がないとき、人はどうすればよいのだろうか。ただ、存在する。そんなことが可能なのかね。完璧な人間はいないから、存在するだけの人間もまたいないのだろうな。

まあ、どうでもいいことを書いた。質量のないことを書いたよ。悪いか。

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