9.22.2014

死と孤独について

わたしの涙をたずさえて、あなたの孤独のなかに行きなさい。わが兄弟よ。わたしが愛するのは、自分自身を越えて創造しようとし、そのために破滅する者だ。――ツァラトゥストラはこう言った。

どうしたって生きるのは難しい。もっと自然に生きられれば良いのだけど!社会的な制約がそれを許さない。ぼくは社会さんとはほどほどにお付き合いしたい。老後の面倒は見ますよ、選挙権あげますよ。ああ、まだるっこしい。

でも、社会がなければぼくはあっけなく死んでしまうことも確かなのだ。いくら、過去の天才たちが孤独によって叡智を授かったとしてもだ。社会に憤り大衆を軽蔑したことのない賢人はいなかった。しかし彼らのだれ一人として、社会的動物でなかった者はいないのだ。

しかし、孤独とは人類の全般的進歩のひとつである。実は「集団生活」は人間特有の文明的な生活ではないと言うと、驚く人が多い。集団生活それ自体は、サルでもイルカでもできることである。何度でも言うが、フロイトがマジでびっくりしたことに、原始生活では「個人の意志、思考」は存在せず、「集団の意識」が個々人を支配しているのである。

これはちょっと考えてみればわかることで、例えば寂れた山村にいくとすると、村民みな似通った考え方をしていることに気づくだろう。断固とした村の戒律、あるいは長老の意見が最優先であり、彼ら個人の意志は存在しない。老婆だろうと若者だろうとひどく似通っていて、村ひとつが意志を持っているような錯覚に陥る。都会では逆だ。演歌ではなくクラシックを聴いてるからといって集団から排斥されることはない。詩人を名乗っても石を投げられることはない。文明的な社会とは、得てして個人主義的なものである。もっとも、都心でも大部分が村社会的なのだが……。

ニーチェが「まことに、個人とは近代の産物である」と言ったように、最近になって人間は集団から抜け出すことができた。しかしいまだ集団的意識に支配されている人もいるのである。例えば、マスコミの作ったブームに踊らされたり、会社に人生を捧げてしまうようなタイプがこれだ。彼らはまだサルかイルカのレベルだ。団塊世代の男性を見ているとこのタイプが多く……まるで小学生かと思うような幼稚さなのだが……まあこれはいい。

ともあれ、個人であること、孤独であることは、人類の比較的新しい一歩なのである。

ひとはどんなときに孤独へ逃げ込むのだろうか?

ぼくはたぶん、将来確実に訪れる自分の死を認識したときだと思う。というのも、これは高度に知性的なことだからだ。小学校三年生レベルの知能が必要であるとされており、それ未満では、死は眠りに近しいもの、自分には訪れないものと誤認される。

人は自分の将来の死について考えたとき、集団的迷妄から目を背ける。集団的迷妄の中では死について考えるようなことはしない、させない。ハクスレーの「すばらしい新世界」における「幸福な」ユートピアでも同様である。
「死に対する条件反射訓練は生後十八ヶ月で開始されるのです、――子供たちは死を当然の出来事と考えるようになります。」

ぼくは道行くひとびとにこう問いたい衝動にかられることがある。例えば新宿駅のホームで……

「そこの忙しげに歩くサラリーマンよ!君たちは、自分が死すべき存在であることを知っているのか?それは数十年後かもしれないが、明日かもしれないのだ。そして、いつか必ず君らは死ぬのだ。だれかではなく、君らが死ななければならない。それでも明日の生活のために、人生を犠牲にするのか?せかせかと、歩かされるのか?生活のために生活を犠牲にするのか?」

なんて言ったら即交番行きだと思うのだけど。ぼくはACのような広告機構に、「あなたは死にます」と言って欲しい。そしたら、みんな少しはまともな生活が送れるんじゃないかなあと思うのだ。和気あいあいとした熟年夫婦がにこやかに「死亡保険が○千万円もつくのね」と言っている保険のCMじゃあ意味がない。

あなたは死にますよ、と。別にどこかの殺人事件や天災に恐怖することはないのだ。君も死ぬ。早いか遅いかだけだ。死をもって人は初めて生きることができる。

バルビュス「地獄」の主人公も言っている。「死こそ、あらゆる観念のなかで重要なものだ」

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