9.21.2014

MUSS ES SEIN

昨日は勉強中、ずっとある女の子のことを頭に思い浮かべていた。そうして、今朝は彼女に無視される夢を見ていた。こうした情愛をコントロールすることには慣れていたはずなのに、人間の感情は思い通りにならないものだ。

何がぼくを彼女に惹きつけるのだろうか。その音楽的才能だろうか。さっぱりした性格だろうか。機知に富んだ話し方だろうか。家柄の良さだろうか。彼女の痩せぎすな身体だろうか。神経質な顔つきだろうか。酒好きなところだろうか。ぼくのあげた小説を読んでくれることだろうか。ぼくに手料理を作ってくれることだろうか。

わからないが、もう終わったことだ。ぼくは次の女性に向かわなくてはならない。場合によっては、女性そのものを断たねばならない。それは禁欲という意味ではなく、性交の間であっても心を許さないということだ。決して愛することなく愛するということ。「存在の耐えられない軽さ」のトマーシュに似ている。

坂口安吾は太宰の入水自殺に触れてこういった。
元々、本当に女に惚れるなどゝいうことは、芸道の人には、できないものである。芸道とは、そういう鬼だけの棲むところだ。
ほんとかいな、安吾さん。



生き方に大いに悩んでいるが、丸山健二を見ていると自分の人生の先輩という気がしてくる。彼のような孤独の生き方、集団的に生きる人びとを軽蔑する生き方にぼくは正直嫌悪感を覚えるが、同族嫌悪のようなものかもしれない。

芸術の役割とはこういうところにあるだろう。つまり、現代における異端者、キチガイや異常者が正しく精神の葛藤を昇華させるような道を与えることである。ぼくがセザンヌの絵を見て涙するのも、ストラヴィンスキーを聴いて涙するのも、彼らが紛う事なき「異端者」であり、彼らが異端者でありながら「正しく」生きているその知性、力強さに感動するからである。

おそらくぼくのような精神疾患持ちは欠陥品ではなく、正しく道を与えられている。しかしその道を無視したり、「いやいや」をして進むことを拒むと、精神疾患として顕在してくる。

いいかね。君が進むのは修羅の道、というわけだ。君はまっすぐとその道を進まなければならない。そうでない限り、君は一歩も進めない。ガスが漏れていないか気になって一向に目的地に辿りつけない神経症のように、気狂いとして終わるだけだ。

ぼくらに与えられた道は普通の人とは違う。ただ違うというだけなのに、それに恐怖している。たしかに、常識的ではない道だ。孤独で寂しい道だ。しかし、その道を進まなければいけない。道を進むか、そこに止まるかしかない。君には普通の道はない。異端の道しかないのだ。進むか、とどまるか選べよ。

「そうでなければならない」。

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