9.09.2014

NEUROTIC x DEPRESSION

今日はあまりに憂鬱がひどいので、矢も盾もたまらず講義を抜け出して家に帰った。友人には体調が悪くなったので帰ると言った。途中、度数の濃いチューハイと激辛カレーを買い、家に帰ると昼間から痛飲した。

激辛カレーは「LEE 辛さ十倍」なのだが、それほど辛くもないのでタバスコをかけてやった。食べながら飲んでいると酔っ払ったので、そのまま寝た。

今、腹には刺激物が腸を刺激することによる疝痛がある。あとは酒によるひどい倦怠と。こうした行為は明らかに自傷行為だ。ぼくはなぜこんなにも憂鬱なのだろうか。

ま、自分のことを知ったというところだろうか。

ぼくは永遠に幸福になれず、永遠にまともにはなれない。ぼくは前々から自分が神経症であることをここで告白しているが、相変わらずの症状だ。ところで、精神病と肉体病は違う。精神はどこかが悪くなって、それを取り除く……というわけにはいかない。考えてみると、精神病はすべて人格の病気だ。自分が自分であることが病的なのである。だから社会的に逸脱した精神を、社会適合の目的から修正すること、これが精神治療なのである。自分が自分であってはならないということ……。

例えば、だれもが経験したあの狭い教室、人口過密の一クラスの村社会。あの学級社会の中に適合できずドロップアウトしたとする。それは病的なのであり、修正すべきと見なされる。親はきっと言うだろう。「なんとかこの子が学校に通えるようにしてください。まともな人間にしてください」と。まあ、ぼくにはそういう経験はないのだが……(我慢してきたので!)。
そのときに、彼の人格を認めることは普通、できないだろう。彼はただあらゆる誤謬に鋭敏なだけであり、間違っているのは学級制度なのではないのか?とはだれも思わないだろう。結果、彼は治療により健常になる。それで万事OKだ。精神病とはそういう類のものだ。(もっとも、重度障害や自殺の危険のある大鬱病は積極的治療を施すべきだ)

ぼく個人が狂っているのか社会が狂っているのかはわからない。しかし、おそらく、ぼくがもっと貧しく成熟していない国に生まれたのであればこんな病気に罹ってはいなかっただろう。ぼくが病気になったことはぼくだけの責任ではないが、しかしぼくは病気の自分を生きねばならない。
「病気にかかったのはあなたの責任ではないが、現在病気を治すのはあなたの責任です。あなたが私にはできませんと言ったら、あなたは自分をのけ者にしているのです。身体がどこもこわれていないかぎり、他の普通の人ができることは何でもできるのです」(アブラハム・M・ロウ)
大体、社会が狂っていなかったことなどない。ぼくは別に社会を恨んではいない。あるビジネス書、なんてことのない海外輸入のビジネス書を昔読んだのだが、その本の冒頭にはこう書いてあった。「この世界は狂っている。まずそれを認めることです。」今考えるとすごいことを書いていたな、と思う。

できることなら、健常な、まともな幸福を生きたいと思う。他人と共感し、仲良く幸福に生きられれば良いと思う……。でも、ぼくに生きられるのは狂気と混沌の世界なのだ。もう決定事項なのだ。それを前提として生きねばならない。

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