10.01.2014

理性と本能について

九月が終わろうとしている。


ぼくは良い人間に成りたいと思う。良い人間というのは、家畜であってもダメだし、動物園の見せものであってもならない。当然、家畜は長生きするし、動物園の動物にしてもそうだ。毎日満足にエサが食べられ、貧窮するということもない。雨風はしのげるし、外敵の脅威もない。しかし、どうだろう。もう駆けることのない駝鳥というものは。いささかグロテスクだと思う。家畜を見たときの憐憫さはこういうところにある。

人間は強力な理性をもってして自然を克服してきた。ところが、この理性に拘泥するのもよくないとぼくは思う。本能こそホンモノであって、理性は道具でなければならない。よく理性的な人間(得てして禁欲的な人間)は、本能的に振る舞う人を見て、だらしない、動物的だ、ケダモノのようだ、と言うけれども、そう言っている方も理性の家畜であり、飼い慣らされた人物である。

人間の本当に高次な欲求は、本能を阻害しない、と思うのだ。本能と言っても、ぼくの言う本能とは食欲性欲のようなフロイト的な指標を指すのではない。マズロー的な実存欲求を示す。

マザーテレサ、シュヴァイツァー、ガンジー、アウシュビッツのコルベル神父にしても、彼らの偉業というのは、本能的でなければ達成できなかっただろう。彼らは理性的にも正しいことをしたし、彼らの精神の内奥の要求にもまた子どものように素直だった、とぼくは推察する。

本当の本能とは、ただ「生きる」ことを要求するものではない。「食べること」「性交すること」を望んでいるわけではない。本能はぼくらにもっとすばらしいことを要求しているはずだ。例えば川で溺れる少年を見かけたら、命を犠牲にするリスクを厭わず助けるのが本能的な振るまいであり、なすすべもなく見守るのが理性的ということもありうる。とにかく、理性を信奉し本能を排斥してしまうこと、これが現代人の悲劇であると思う。

ぼくらの幸福は、理性と本能の合致したところにある。ぼくらは注意深く本能の要求を探れば、道を誤ることはないだろう。低次な本能に翻弄され、怠惰な犯罪者になるということもないし、理性の奴隷になって人生を空費してしまうこともない。よき人生は、理性が本能を阻害せず、理性が本能を阻害せずという道だ。そういう道を見つけたら、あとはもう形振り構わず進むことだろう。

0 件のコメント:

コメントを投稿