10.16.2014

ときの奔流のなかで

こんなブログであっても、パソコンに向かっていると、さあ何を書いてやろうかという気になるのである。自分でも不思議な習慣だと思うが、ブログに何か書くということが日課になってしまった。

慣習にしていることと言えば、もうひとつ、楽器の練習がある。たぶん、ぼくの日常で心から好きと言えることはこのふたつだと思う。好きであるということは、毎日の反復を厭わないことだ。他者の強制がなくても、あるいは何らかの制約や障害があっても、それをしてしまうということだ。

芸術とは弱者のためのものであると思う。ゲーテやバッハは成功したけれども、彼らもまた弱い人だった。彼らは弱かったが、その弱さに潰れない強さもまたもっていた。だが、その本態はどこまでも弱い人間だった。

本当の強者は歴史の表には立たないものなのではないか、という気がしている。時の風化に耐えられないようなものに存外の価値がある。岡本太郎は、石器時代なんて呼称は誤解を招く、石器しか残らなかったから石器時代と言われているだけで、布地や藁細工など、他の文化もちゃんとあったのだ、というようなことを言っていたと思う。

本当に良いものは、大々的に名作扱いされるものでなく、だれの目にも止まらないものや、細々とマニア=愛好家に大事に保管されるようなものにあるのではないかと思う。

ぼくはサティやハチャトゥリアンを聴く。それは大変すばらしい音楽なのだが、どうも心にしっくりこない。ぼくは自分のために作られたような作品が欲しいのである。芸術家の動機とはそういうものかもしれない。あらゆる文学に手を出して、「これだけか!これだけなのか!」と嘆くひとが小説家になるのだろう。まず自分にとって慰めになるような作品を生みだしたいという衝動。

ところで、長く書いてきてわかることは、ぼくの文章は堅苦しく、表現体として稚拙だということである。ぼくは美しい文章を書けない。詩なんてもっての他である。だからといって難しい文章も無理だ。自分に文才がないと言うつもりはない。こうして毎日書くことはできているのだから、多少の才はある。ただ、ヘタクソだ。

ぼくの楽器も稚拙だったが、毎日幾ばくかの時間を費やすことによって、不思議と形になってきた。焦点が次第にあってくるという不思議な感覚だ。ヘタクソな演奏はブレているものである。あっちへ行ったり、こっちへ行ったりせわしない。一方、最高の作品は、あるバランスを保っている。これ以上でもマズいし、これ以下でもマズいという、急所を捉えているものだ。

まあ、ブサイクに生まれついても、しょうがないものだ。それは変えようがない。短い指でも優れたピアニストになれる。また、楽器から教わることがもっとも多いのだし、書くことについても、自分のエクリチュールに教わることが多い。気長に続けることだろう。

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