10.18.2014

愛することについて

ひとを愛することができるようになったと最近感じている。これまでのぼくは他者をまるで愛することができていなかった。愛することを怖れ、また愛されることを怖れていたためである。

ぼくが長らく自分が盲だったと思うことに、他者の中に自分を見つけることができなかった。他者のどこかには必ず自己がいる。それを知っていると、自分を愛するように他者を愛することができるようになった。

他者を愛するためには自分を愛することが必要だった。

初めは自己を愛せなかった時代である。自分というものが認められず、そのため自分を愛する道具として他者を利用した。「友達が何人いる」というステータスや、スケジュール帳が予定で埋まるというような充足感、漫画にあるような典型的な仲良しグループに身を置くことが自分を愛するために必要だった。こうした習慣は二十歳まで続いた。他者が自分を必要しているのだから、「自分は存在していい」。このような理由で行うコミュニケーションは意味をなすこともなく、人びともバカではないので、ぼくは拒絶された。

次には、いつしかぼくはそんな習慣を辞めた。世界を一気に拒絶した。孤独の中に浸り、ただ自己とだけ語らった。徹底的な個人主義者となって、勝手気ままに行動し、規則を守らず、常識を無視した。マスコミや社交をはねつけ、ひとり暗い部屋で宗教や哲学の本を読んだ。永遠独立の個人がぼくの目指すところだった。
「君ね、ひとりで生きてるんじゃないんだよ」とある教授に言われたことがある。今では彼の言葉の意味もわかるが、あのときは全ての人間は一人で生まれ、一人で死んでいくのだとぼくは信じていた。孤独の中は、それより前の渇望の時期より多くの自尊心が得られた。ぼくはそれだけで生きていけた。あらゆる他者を否定し、自分だけを心底愛して暮らしていた。ぼくは冷たく暗い孤独の最果てを歩んだ。

そうした二つの時期を越えて、ようやく人間社会に帰ろうという気になった。一度自分を愛することを覚えてしまうと、応用が効くものだ。ぼくは初めて他者を心底愛せるようになった。他者の尊重とか、尊敬といった言葉の意味がわかるようになった。ある人が、ある人固有の能力を自由に発現しているとき、ぼくは彼を愛する。彼の何気ない仕草に、彼特有の才能、人格、意志が見られたときにぼくは彼を愛する。彼が挫折に苦しみ、自己を痛めつけているときに、ぼくは彼を愛する。他者のどこかには自己がいる。それは握手を求めるばかりではない。眠っているかもしれないし、牙を剥くかもしれない。とにかくそれを探し出すことである。

こうしたことを学んだときに、世界は一気に輝けるものになった。何といっても、世界のあらゆるところに他者がいるのであり、他者があるところには愛情がある。ぼくは今その眩しさに戸惑っている子どもというわけだ。



この三つのプロセスは、まず「自己も他者も愛せない」第一の状態から、第二の「自己だけは愛せる」状態となり、最後の「自己も他者も愛せる」という三段階を踏んでいる。普通の子どもは、たぶん遅くとも十五歳になるまでにはこうした成熟した愛の感情を発達させるものだと思う。ぼくの場合ではあまりに遅すぎた。どういうわけか?遺伝的な欠陥なのか、環境的な阻害作用によるものかは知らないが、ぼくはこの年でようやく愛情を得ることができたことは事実だ。

第一の時期、他者を利用しようという人間は、最近の精神医学で言うと「境界例(ボーダー)」ということになるだろう。これはつまり、母親から受けるような無償の愛を、赤の他人からも要求するということである。ぼくのエピソードを鑑みると、境界例の治療には、まず他者から切り離し、自立させることが必要なのではないかと思う。それは母体であるところの他者から解放するということである。



今日は鎧淳訳の「バガヴァッド・ギーター」を読んだ。ギーターはインド神話のクライマックスの部分であり、全世界で聖書の次に読まれている。インドへ旅行に行ったときに、電車で隣り合った奴に「ぼくはギーターが好きでよく読むんだよ」と言うと喜ばれたり、感心されたものだ。非暴力、不服従で有名もマハトマ・ガンジーも挫折しそうになったときは本書を開いて慰められたという。

それだけの著作だから、中身はすばらしく、ぼくはたいへん感服してしまった。筆舌に尽くしがたい箴言の数々である。ニーチェ、テグジュペリ、ヘッセ、宮沢賢治がなんだったろうか。ぼくの読んだ数百冊の本がなんだったか。数百冊という冊数、読書に費やした時間は何だったか。全ての智慧がここにあったのだ。

ネットの情報量が書籍を越えたという。しかし、ネットのすべてのテキストを見ても、ギーターの数十頁を越えるものはないだろう。すべては紀元前数世紀に書かれていた。ぼくらの苦悩が、道が、そこに書かれていたというわけだ。

哲学はインド哲学とギリシャ哲学とで完結しているという話をよく聞く。そんなわけあるか、俺たちは進歩しているのだから。原子の構造も天体の動きも知らない奴らに何がわかるというのか……ぼくも賛同するが、哲学に関しては、生き方に関しては、ぼくらは退歩してるとは言えないだろうか。

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