10.19.2014

冒険家

ぼくのような人間に価値があるとすれば、それは独立しているという点だろう。

ぼくは集団の中にあって、快活に話すことが苦手である。他者がいるとぼくはどもるし、言葉に詰まってしまう。天性のネガティビストであり、人とお茶を飲んでいる間にも、「この人は、ぼくのような粗末な人間と話すよりは、テレビを見ていた方が気楽ではないのか」と勘ぐってしまう類の人間である。また、ぼくは仕事に熱中するタイプではない。アルバイトをしているときでも、「いかに少ない労働量で時給を稼ぐか」ということを終始考えていた。そんなわけで人に愛されず、また仕事もよくよくしない、社会的に無価値な人間であると思っていた。

もちろんぼくだって電柱やポストではないのだから、社会の要求をちゃんと肌身に感じていた。ぼくは友達に好かれようと道化を演じ、「コミュ力」を磨こうとした。同僚に気に入られようと、人の1.2倍くらい仕事をした。しかし、どこかで「なぜこんなことをしなければならないのか」と思い始めてしまう。そして長く続かない。想像してみてほしいが、突発的に人より仕事をして、評価されることを望むような奴は職場でいちばん使えないのである。下手な怠け者よりたちが悪い。自然、ぼくは以前よりもっと社会から拒絶されるようになった。

そうして、ぼくはどこかで吹っ切れた。友人とは縁を切り、バイトも辞めた。ただ音楽を聴いて、読書して、日々を過ごした。それは居心地がよく、朝の風のように澄んだ平穏だった。

しだいに悟ったことは、ぼくには友人も仕事も無価値であるということである。必要は発明の母というが、才能も欲求にしたがって形作られるものだ。たとえば有名になろうと思って楽器を練習する奴は絶対にうまくならない。それが才能がないということならそうなのだろう。彼はニコ生でもやった方がいい。

人の愛を求める人間は弁に長け、労使されることを求める人は時給900円に何も疑わなくなる。ぼくは長らく社会的な価値観の奴隷であった、父なる社会様はこうおっしゃる。「友達を作りたまえ。いつもにこにこ笑い、組織の潤滑な構成員たれ」「よく働き、仕事を認めれるようになりたまえ」。こうした価値観、マスコミや学校で「教育」された価値観からぼくは自由になった。ぼくは思う存分しかめつらをし、怠惰に非生産的に生活している。

コリン・ウィルソンの「アウトサイダー」だの、アンソニー・ストーやクレッチマーの本の中では、ぼくのようなつまはじきもののすべきことは共通している。それは隠遁し、学問や芸術の中で生きよということだ。どういうわけかこの世は王者と平民だけで構成されているのではないらしい。疎外者はまだ社会の構成員でありうる。それは学問的、芸術的な功績をあげることによって。人間はまったく個人であることはありえないのだ。

ぼくのような人間は、社会から離れた寒空の中で、叡智をつかんで持ってこいというわけだ。ぼくらの仕事は冒険家のそれに近い。危険と困難の先に、何か美しいものを探し求めるのだ。ぼくらの中には、発狂や自殺という形でドロップアウトする落伍者もいるが、そうならないよう、強靱な意志と勇気と智慧をもって進まねばならない。ぼくらの多くは本当の仕事を忘れている。目を開かれていないぼくらは、愛に恵まれず仕事に無能である理由を知らなかった。その理由は温もりと定住を離れて未知の世界に飛び出したかったからなのである。血が、本性が求めているのだ。

ぼくらの先人の姿や墓場は必ずしも目につくものではない。冒険家たちの持ち帰った宝物は、すぐに王様が取り上げてしまうし、平民たちはその模造品を自分の装飾具にしたがる。彼らは一旦宝物を得ると、冒険家たちを追放して、その像を塗り替えてしまう。彼らには信じられないのだ。人類の進歩に貢献した人間が、王族や平民でない「つまはじきもの」ということが。だから、冒険家たちの本当の姿は歴史の闇に葬られる。

そんなわけで、ぼくらのような人間が自分の本当の仕事に気づいたときはつねに危険を伴う。ぼくらの父や兄となる冒険家たちの通った道は、あまりに古いか時によってかき消されているので、ぼくらは耳を澄まし、極度に警戒しながら、大胆に歩まなければならない。

買いかぶりすぎかもしれないが、ぼくは自分のことをそのように捉えている。

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