10.02.2014

失恋の痛みをどこまでも引きずる男

ひどい夢を見てしまった。

昔好きだった女のマンションに行く。壁に耳を当てる。彼女と男の会話が聞こえる。彼女と男は連れだって出て行く。音楽に関する親しげな会話をしている。ぼくは顔を伏せてすれ違う。彼らはぼくに気づかない。彼女たちが離れると、ぼくはひとりでマンションを去った。


で、目が覚める。こんな夢を見てしまうと、眠ろうという気がなくなる。

まあありがちな失恋ネタなのだが、彼女がどれだけぼくの心を支配しているかがよくわかる。それにぼくは彼女を肉欲的に愛しているのではなく、彼女の人格や知性を愛しているのである。それにしても、そろそろ忘れてもいいくらいなのだが……。彼女のことを長い間引きずる理由は、たぶん十分に悲しんでいないからなのだと思う。

苦しむことも一つの才能だ、とだれかが言ったがぼくはこの能力に欠けている。ぼくは中学のとき、ある女子からいじめに遭っていた。ぼくはたしかに中学から変だったが、クラスに自分の居場所を見つけ、ある程度馴染んでいたと思う。だから今考えても、彼女たちの振るまいは理不尽だった。ぼくを「身障」と呼びつけ、彼女は家が近いので通学が重なることもあり、「身障に付きまとわれた」とぼくに聞こえよがしに言うのだ。

そのときから、ぼくは十分に苦しむ術を持たなかった。別にどうでもいいやと放っておいたのである。そして、高校生になってたまにそのことを思い出すのだが、そのときも、「彼女たちは子どもだった。子どものすることは仕方ない」とキレイに片をつけようとしていた。ネットを見たら、「昔いじめてきた奴を殺したい」と言う意見が主流で、いじめの程度に依るのかもしれないが、ぼくはその温度差にびっくりしたことがある。

とまあこのように哀しみについても不感症的であり、ぼくは彼女に冷たくされ、疎遠になっていく間も、とくに悲しむこともせず、「こんなものだろう」と冷静に処した。それは明らかに自分の問題であるのに、他者の恋愛が終わることのようにぼんやりと構えている。「恋愛はうまく行かないのが当たり前だし、終わるときは悲しいよね」と早々に諦めた。しかし、そんな甘い方法で失恋の痛手が癒やせるわけではないだろう。だから彼女が夢に出てくるのだ。

ぼくは今更彼女を手に入れることはできない、と考えている。それすら実際のところは思い込みなのかもしれない。元はと言えば、ぼくが彼女に冷たくしたのだ。ぼくは彼女がちょっと不信な振るまいをしたり、ぼくを軽視するような態度をとると、我慢できずにすぐに距離を置いた。ぼくは痛みにひどく敏感だから、あらかじめマージンを取っているのだ。それが彼女を傷つけたのである。

だから、ぼくはショーペンハウエルの言う馬鹿者なのだ。
利口な人間は適当な距離をおいて火に当たり、馬鹿者みたいに手を突っ込んだりはしない。ばかな人間は手を突っ込んでやけどをしてから、寒い孤独へ逃れて、火が燃えて困るといって嘆くのである。(「幸福について」)
勇気を出して、彼女にもう一度やり直さないかと声をかけることがひとつの区切りになる気がする。そして、大いに泣きまくることなのだと思う。全身に哀しみを受けとめて、子どものように泣ければどんなに気持ちがいいか。

ぼくは中学のときから妙に達観していたのだ、自分の受けとめる刺激に憤りもせず、そのようなものだと人生に見切りをつけ、悲しむ自分を封殺すること。しかしそんな超人的な行為は不可能である。自己を過度に抑圧し、哀しみは解消されずに終わる。結果的には、過去に支配され続ける、がんじがらめの男になってしまう。

彼女たちを見送ったあとに、夢の続きがあったことを思い出した。

マンションの敷地内を歩いていると、クリニックの看板が目にかかる。そしてこう思う。医学部再受験しようかな。卒業したら三十歳半ばか。人生をトータルで見たら金銭的には回収できるのかもしれない。「でも、ぼくはいつになったら本当に生き始めるのか?」
そして目覚めたのだ。

これもおもしろいところで、ぼくのフラストレーションは権力欲にシフトしている。つまり失恋の痛手から金、医者というステータスへ逃げ込んでいるのだ。確かに過去にもこうした逃避的な権力追求があったと思う。

マア、人間の振るまいとしては上等な部類のものだと思う。失恋の痛みはあまりに大きいと、弱い人間を潰してしまう可能性がある。「素直に悲しむ」ことはかなり強靱な精神を要求するものである。だからぼくは「彼女に振られたんです」と言って泣いている人を見ると、とても健全で、羨ましいことだと思う。本当は悲しんでいるのに、平気な顔をしているぼくは、グロテスクで歪な人間であり、子どものような未熟な精神を持っている、ということになるだろう。

医学部再受験というよくわからない計画を考案したのちに、「ぼくはいつになったら本当に生き始めるのか?」と嘆くことは正しい。ぼくは全てを後回しにしているようだ。それは医学部に入学して、六年間を勉強に費やし、その後本当に「生き始める」と言うような。これは暗示的でもある。ぼくは六年かけてこの失恋を癒やそうとしているのかもしれない。

六年も?洒落にならない。そんな長い間苦しむのはまっぴらごめんだ。本当は、今、思いっきり悲しむことなのだ。人生の悲哀を直に受けとめるべきなのだ。その勇気も、体力も、ぼくには欠けている。これが本当に悲しいことである。せいぜいできることと言えば、泣ける映画でも観て、そうして代償的に涙を流すことだろう。そんなことしかできないのだ。屈折している。弱い。それが現在のぼくである。

0 件のコメント:

コメントを投稿