10.21.2014

前を向くこと

著名な芸術作品や哲学のような、「不滅」なものに触れる人は、ひとつの宿命を背負う。芸術作品を鑑賞すると、ぼくらはその美しさや楽しさに子どものようにはしゃいで飛び跳ねるけども、決してそれだけで終わるのではない。彼らの作品が与えるすばらしさの中にはあるメッセージが含まれている。それは彼らが生涯をかけて追求した「人類の全般的進歩に貢献する」という使命を果たせ、という義務である。

だから、読むことでも聴くことでも、ぼくらが芸術作品に触れるとき、無意識にある思念を「引き継いでいる」のである。過去の偉人たちが言う。ここまでが私の仕事だった、ここからは君の――というわけだ。父の大事に整備した田畑を子が引き継がねばならないように。

作品と時代性は切り離せない。村上春樹とプラトンは違う要素を持っているし、草間彌生とミケランジェロも同様である。個人の作品にしても、処女作と晩年の作品では味付けがまるで違うのが常である。作品各々が時代性を持つということは、彼らがひとつの歴史に組み込まれていることを意味する。歴史から切り離された作品はない。すべて何らかの文脈の上に立つのであり、そうでない限りは無価値か狂気の作品だ。シュルレアリスムの作品が世に受け入れられたのは、それが創造物であり、芸術史の止揚となったからである。現代にゴッホそのままの画家があらわれても評価はされない。それは進歩ではなく退歩だであり、価値はむしろ反転してしまう。

既存の芸術作品はすべて過去のものである。だからディレッタントはたまに罠に陥る。現代に倦怠するあまり、モーツァルトの時代に憧れるのである。それはモーツァルトの作品に心酔するというよりも(彼はそう思っているが)モーツァルトの時代がただ「遠い」からだ。現代ジャズを否定し60年代ジャズしか聴かない人もそうだし、昔の250ccレーサー・レプリカ・バイク以外認めない人も然り。

ところが、ぼくらは過去ばかりを見ていられない。時間は一方向だ。また、足元ばかりを見ているのではない。時間は止まらないからだ。人間の目は前にしかついていないのだし、また後ろに走ることも難しい。ぼくらはどちらかと言えば、前に進むようにできている。過去に落ち着いてしまうことはまったく人間の本態に反する。田畑の草むしりをいくらしたところで、種をまかねば意味がない。全ての「意味」は、未来に向かっている。

ぼくらは過去を見た分だけ、前に飛翔できるだろう。芸術作品を見るとき、そこに感じるのはぼくらの生きる意味である。ぼくらはまったく歴史から切り離された、狂気の時代に生きているように思える。この現代は色彩がゴチャゴチャして様相をつかみづらい。しかし、それは現代に安住しようと試みるからである。ぼくらの未来はシンプルだし、過去もまたシンプルだった。それは正規分布のグラフに似る。ぼくらは未来に立つことによって、この恐ろしく物で溢れかえり、同時に空漠である現代社会から抜け出すことができるのである。

必要なことは、現代から抜け出して、未来に立つことだ。それは常に肌寒さに悩まされることを意味する。しかし、今更それを厭うぼくらではないはずだ。

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