10.22.2014

禁欲について

禁欲的な生活は続いている。

過去にも禁欲生活を試みたことがある。幾度となく失敗し、最長で100日続けば良いほうだった。以前のぼくは情欲にかられたら、それを強引に力でねじ伏せていた。しかしそれはあまり好ましい方法ではなかったと思う。

今回は、それよりももっと母性的に対応している。母親のもつような注意深さで自分を監視し、少しでもそういう気を見せたら、その火をそっと消してあげるのだ。まあ、ベッドに隠したエロ本がいつの間にか勉強机の上に置かれているといった具合に似ている。

「禁煙」については良い実践書がいくらでもある。ところが「禁欲」となるとろくな本がない。試みる人は少ないし、おおっぴらに語ることでもないからだろう。なので、キリスト教のサイトを良く見ている。ぼくは別にクリスチャンでも何でもなく、シントゥイスト?である(旅先の外人に「神道を信じている」と説明するときいつも難儀したことを思い出す)。しかしキリスト教は悪魔の誘惑と2000年闘ってきた歴史の積み重ねがある。これはまったく比類なき叡智であって、利用しない手はない。

欲情は火のようなものであり、燃えさかる前に消化することが肝心であるとか、悪魔の声に耳を貸してはならない、また悪魔と議論しようと思ってはならない。悪魔は何千年も人間と議論してきたので、弁論に長けている。ただ、神の言葉を放つことにより打ち勝つことができる……とか。禁欲の道に悩むことがあれば、聖書関連のサイトが良い。

ところで、何となくサイトを見ていると、ひとつ良いこと言うなあというのがあった。「神に赦せないほど大きな罪はない」という言葉である。こんなこと言われたらコロッと改宗してしまうかもしれない。人は罪を犯すものだし、過去はどこまでも自分を追ってくるものだ。神の許しを乞いたくもなる。

いったん禁欲して世の中を見渡してみると、日本がいかに堕落しているかわかる。コンビニに行けば堂々とエロ本が売られているし、スマホで調べ物をすると、エロ広告がページ繰りをしつっこく追いかける。何かの本で、日常にポルノが氾濫しているのは世界中でも日本とタイくらいだ、と書いてあった。ぼくは数カ国しか海外に行った経験はないが、その実感はある(パチンコ屋が堂々と駅前にあるのも特異なのだが……)。

マア、アメリカであってもポルノにアクセスすることは簡単だ。サウス・パークのマーシュ(XVideo中毒になった回がある)は特例ではなくって、アメリカ人は一日平均して7つのポルノ動画を観るのだという。

そうでなくとも、街の女の子たちはバーンとおっぱいや太ももを晒している。少し前のぼくであれば、「僥倖!」とか言って目で追いかけたが、今はぐっと俯かなければならない。酷である。

こうした社会で禁欲生活を続けていくことは難しい。だいいち、教科書でも「オナニーは悪ではありませんよ」と書いてあるのだ。今では違うかもしれないが、ぼくが義務教育を受けていたときはそうだった。この性教育はどうかと思う。実際のところ、ぼくはオナニーは悪である、と思う。必要悪だ。たぶん、オナニーを公的に厳罰化したら、性犯罪は爆発的に上がるだろう。

しかし、個人が良く生きようと思ったら、禁欲は極めて有効であると思う。日々を生産的に生きられるという気がする。まあまだ10日も経っていないが、このように思う。

ちなみにオナニーの語源であるオナンは、旧約聖書の登場人物である。精液を地に流したことでヤハウェの反感を買い、殺された。これは膣外射精だったと言われているのだが。

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