10.25.2014

死と真理について

最近非常に腑に落ちることがあった。真理は存在しないのである。そう考えると、いろいろなことがぴたっと嵌まる。

ぼくはこのブログで、何度かこう言ってきた。人間を定義づけるものは、自分が死にゆく存在であることを自覚していることである、と。なぜなら人間以外に自らの死を認識している動物はいないからだ。他者の死であれば認識できる。例えば霊長類で最高の知性を持つゴリラは、他者の死を「眠りのようなもの」と捕らえている。ゴリラはまだ二つのことに気づいていない。それは死と眠りは別物であり仲間は永遠に目を覚まさないということ、死が近い将来に彼自身にも訪れるという事実である。彼の認識は人間の二歳児のそれと似ている。ある研究によれば、「自分にも死が必ず訪れる」と悟るには、九歳児程度の知能が必要なのだという(思い当たる人は多いはず)。

さて、人間は近い将来における自らの死を認識するよう生まれついた。キリスト教ではアニミズムと異なり、人間を他の動物と区別している。人間は神に似せて作られた創造物だ、というわけである。この考え方は、もはや人間が動物と同じ価値規範を持たないという意味で正しい。ぼくらは目前のエサだとか、フェロモンに衝動的につきうごかされる動物ではなくなった。

もしも生が無限であるか、死に目を向けることがなければ、ぼくらはいくらでも怠惰に生活することができる。車の発明なんて必要ない。歩いて行けばよい。はたらく必要もない。ハクスレーの「すばらしい新世界」のように、ただ戯れに飯を食べ、戯れに性交するという日々だろう。

ところがぼくらは死を認識してしまった。ぼくらは何へ向かうのか。その行く先が「真理」とか「真実」なのである。なぜならそれらの概念は永遠の要素を持つからである。常ならざる存在であるぼくらが、永遠性を持つものを愛するということは必然である。それはか弱い女が力強い男を求めるのと似ている。

重要なことは、ぼくらは知恵を愛するけども、それは決して主体的な振るまいではないということだ。あらゆる動物が、環境と肉体によって行動が決定づけられているように、ぼくらも「死」という檻に気づいた動物に過ぎない。だから、ぼくらはゲージの中のラットがそうするように、叩いたり、動き回ったりして何とか出口を探しもとめるのである。

冒頭の「真理は存在しない」ということの意味は、人間の探し当てたと思っている「真理」は、人間の欲求から切り離せていないということだ。動物にとっては、ぼくらの考える真理とは目の前のバナナ以上のものではないだろう。プラトンの言うようなイデアは存在しない。しかし、そのような真理は全ての人間が求めている。ぼくらはカントを読めばそこに真理を感じ興奮する。その意味では確かに存在するのである。

ところで、真理など存在しないとすれば、ぼくらがそれを求めることは間違っているのだろうか。すべては徒労なのではないだろうか。これについては簡単に答えられるものではないが、ぼくらがこの死から逃れられないという事実によって数々の偉大な業績を残したことは事実である。芸術作品然り、科学の発明然り。

怠惰に衝動的に振る舞うことは本当ではない。ぼくらは一旦死を認識した以上、動物には戻れない。動物的に振る舞う人びと、例えば飽食にあけくれ怠惰な生活を送る人は間違っている、と言うことができるだろう。彼は人間であって動物ではないからだ。

動物的な人は「俺は自分に素直すぎるだけなんだ」というが、誤謬である。普通のひとびとが思っているのとは反対に、すべて高貴な人間は自分の欲求に素直なものだ。ただ彼はより高次の欲求にしたがっているのである。動物的な人間は目が開いていない。自らの死を認識できないのであれば二歳児と同じである。しかし成熟した脳みその知能指数がそこまで異なることはない。彼はただそれを遠ざけて、無意識に追いやっている。その方が楽だし、またそうすることが慣習だからだ。しかしそういう人間は、肉親の死や、自らの老いなどの機会によって改心することになるだろう。

ぼくらが必ず死ぬことは事実である。そうであれば、ぼくらがただ食べ、寝て終わるという生活は本当ではない。そうした生活は、むしろぼくらを阻害するものである。ただ肉体的自己を満足させるだけであってはならない。あがき続けるということが、人間の正しい姿勢である。

ずいぶん稚拙な哲学を展開してしまった。でもまあ、哲学は少数の天才のためだけのものではないと思ったりするのである。

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