10.18.2014

高貴さについて

ある女のことが忘れられない、ということをこのブログの中で書き続けているのだけど、あいも変わらず想い続けてしまっている。最近のぼくの心理の傾向は、彼女に対する愛情を敵意にかえてなんとか喪失体験に適応しようと試みているようだ。

他者を求めるということは、未熟さのあらわれだろう。何にも欠けることのない人がだれかを恋い慕うことはない。優れて成熟した人間が、高級車やマンションの誘惑に惑わされることがないように、彼は他者を愛することはあっても、失恋してピストル自殺などという狂気染みたふるまいはしないだろう。

恋はまず第一義に、狂気である。狂気の闇底に陥らない、強い、円熟した人間を目指さねばならない。彼女はぼくにないものを持っていた。そうだから彼女を求めるのだ。その欠如の対象は、必ずしも彼女個人にあるのではない。もっと普遍的なものだろう。

彼女のことを冷静に分析すれば、ぼくのような身分の者からすれば高貴すぎる、ということになる。現代日本には貴族も王族もない(あ、天皇がいた)が、少し昔であれば、ぼくは農奴で、彼女は華族といったような絶望的な関係だったはずだ。それだけの生まれの違いがあった。

彼女の叔父や叔母は知事であり、国際的な企業の経営者であり、また大学教授であった。ぼくの親類はといえば、消防士であり、中学教師であり、中小企業のサラリーマンであった。彼女の家族は月に一度正装して赤坂のレストランへ出かけたが、ぼくは月に一度家族でラーメンを食べに行った。彼女は著名な進学校を出たが、ぼくは偏差値40の高校を出た。彼女はバイオリンでバッハを弾くが、ぼくは下卑たアメリカ音楽をやっていた。

このように、彼女は高貴な人間であった。この彼女の高貴さが、田舎から出てきたぼくには物珍しく、強烈にぼくの興味を惹いたということになるだろう。彼女は見たことのない色で輝く宝石であった。ぼくは彼女の属するハイソサイエティに憧れをもった。単なる金持ちの到底達することのできない、本当の生まれの違いである。この生まれの違いを意識する人は少ない。ぼくも彼女を知るまでは、世間には金持ちか貧乏かの違いくらいで、人間に根本的な「育ちの違い」があると思ってはいなかった。しかし、優れた家系、劣悪な家系というのはある。

ぼくの家系が特別劣るとは思わない。一応の歴史はあるし、それなりに名の知れた先祖もいる。しかしぼくの一つ上の世代に、社会的に成功したという人はいなかった。またその人生を開花させたという人も知らない。ぼくの父は卑しく、母は愚鈍だった(ごめん両親よ)。またぼくの育ちも猛烈に悪かった。

彼女とは数ヶ月、交際した。交際と言っても彼女からすれば遊びだったろうが。それが次第に縁遠くなった。彼女の熱が冷めたのだろう。今でもキャンパスでたまにすれ違うが、気まずい挨拶を交わすだけだ。ぼくはもう彼女を追うことはなくなった。しかし、彼女の幻影にはいまだ悩まされ続けている。この幻影は何者だ?

さきほども言ったように、何かを渇望するということは、ぼくに何かが欠如していることを意味する。それは彼女自身かといえばそうではない。彼女という一個のヒトの個体がぼくに従属することをぼくが求めているのではない。

人間の認識の限界をぼくは知っている。ある女がブランド物のハンドバッグを求めているからといって、彼女が本当に求めているものはハンドバッグそのものではないことをぼくは知っている。それは彼女の生活を変えたいという願望だったり……日常の倦怠への絶望だったり……にぎやかな消費社会への参画の欲求だったりと……恐ろしく雑多な、もやもやして錯綜した感情が、彼女をハンドバッグへ至らせる。彼女はこう言うだろう。「私はこのハンドバッグが欲しい」。しかし、ぼくは知っている。彼女はハンドバッグの中の虚空を求めているのだと。だから、彼女はハンドバッグを手にしたとたん失望する。本当に求めているものはそんなものではないからだ。

ぼくが求めていることは、たぶん、まだ曖昧だが、高貴であることだ。人間として気高く生きることだ。ぼくの中の彼女は、その点が強調されている。ぼくが彼女を理想化するとすれば、その点なのだ。

彼女はぼくの生き方を修正してくれた。彼女を知ったことはよかったと思う。ぼくはこれまで、あまりに卑しい人間だったから……。今後も彼女の幻影はぼくにつきまとい続けるだろう。しかしそれもよいことだ。恋の激しい焔はぼくの精神をどん底まで突き落としたが、彼女との思い出は、温かい持続する光を与えてくれるものに変わると信じたい。

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