10.03.2014

憂鬱の顔を見てみれば

憂鬱は出来事の中にあるのではない。反対に、あの出来事とこの出来事の間の、日常の中に潜んでいる。憂鬱は苦難と試練の中にあるのではない。反対に、希薄さと空虚さの中に潜んでいる。

ぼくらは耐えられない憂鬱に陥ったとき、その原因を求める(一義的な原因をだ)。仕事で失敗したからだ、女に振られたからだ……あるいは幼少期の喪失体験だ……そういう風に原因を求める。そうして、ひとつ目星をつけたら、あれが原因だったのかと溜飲を下げる。しかし、そうではない。そんなところに原因があるのではない。憂鬱の原因は、ただこの生活の中に潜んでいる。怠惰な繰り返しの中……。カップラーメンの麺を口に運ぶときだとか……。街中で往来の人びとを気にしながら、そして気にせずに歩いているときだとか……。そういうところに憂鬱はあるのだ。「そこでもなく」「ここでもなく」見過ごされた生活の中に、ぼくらの耐えがたい苦悩が潜んでいる。

ぼくらが憂鬱になるのは単なるreactionなのではない。憂鬱とは主体的な振るまいである。東日本大震災のときでも、自殺は増えなかった。かえって、生きてやろうという人が増えたのである。決して、何にも悩まずカラッと生きることが正しいのではない。そんな人間こそ病気なのだ。どうも人間はある周期で憂鬱に沈まなければいけないらしい。いくら環境を整備したところで……憂鬱になるときはくる。仕事の成績は良く……家族に恵まれ……美しい未来像……そんな人間にも、憂鬱は平然とやってくる!こつこつと築き上げた堡塁を乗りこえて!洪水が石垣を浸潤するように!そして、何もかもめちゃくちゃにする。しかし、彼は本心から憂鬱を憎むだろうけども……。どうだろう?憂鬱の顔を見てみれば、それは彼自身なのだから……。

「私は幸福に生きる」?それは結構。しかし、不幸はどこまでもついてくる、少し遅らせることだけは、人間には可能である。それだけの違いだ。

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